2024年5月13日 (月)

中央線脇の忠魂碑

中央線脇の忠魂碑

 数年前に中央線の電車に乗って甲府方面に向かった時、線路脇に何やら石碑が立っているのに気がついた。そして、先日久しぶりに中央東線の電車に乗ったので、あの石碑がどこにあったのか確認した。相模湖駅を出て四つ目のトンネルを出て、五つ目のトンネルに入る直前の右側だ。ネットで調べると中央下り線のトンネルは、相模湖(旧与瀬)駅を出ると、一、与瀬トンネル、二、横道第一トンネル、三、横道第二トンネル、四、橋沢トンネル、五、天屋トンネル、六、吉野トンネル、七、藤野トンネルの順で、その次が藤野駅(一九四三年開業)なので、橋沢トンネルと天屋トンネルの間。地図で見ると相模原市与瀬と吉野の境界付近。相模湖の釣り師が天水ワンドと呼ぶ入江に注ぐ沢に掛かった橋梁の脇辺りだ。
 寝坊して何をするにも中途半端になった休日、暇潰しに現地に行ってみる。国道二〇号を下っていき、岬にの先に相模湖ローヤルホテル(廃墟)のあるトンネルを抜けた先。日常の絶景ポイントである新旧の巨大ワッフル護岸の切れ目が件の石碑の辺りである。国道脇から入り込むが、道のようなものはない。ただ、少し進むと沢沿いの護岸の上に踏み跡があり、斜面には工事現場のようなメッシュ床の歩廊が設置されている。少し進むと線路に突き当たるが、線路の向こうに私が探していた石碑が見える。そして、工事現場のような階段がトンネルの坑門の上に続いている。コンクリートの坑門の上を通って線路の反対側に出ると、奥の方に煉瓦積みの旧坑門の擁壁が見える。坑口を伸ばすことで土砂崩れなどの影響を受けにくいように改良工事をしているようだ。
 線路を超えて辿り着いた石碑は、周辺をコンクリートで固められて綺麗に整備されている。比較的近年整備されたようだ。建築足場のような通路は、その時に設置されたのかもしれない。
 石碑の高さは一メートル五〇センチ程。線路に向かった表面には「忠魂碑」と大きく書かれている。戦没者の慰霊碑などは、鎮守の境内などに建てられることが多いので、此処で何かが起こった事を伝える碑であろうと推測出来る。そして裏に回ると、比較的簡潔な文章が記されている。大して長くないので全文を書き写してきた。

昭和三年七月三十一日洪雨出水橋澤隧道西口土砂俄然
崩壊行通杜絕焉欲慰防水工事作業殉職者之幽魂樹之矣

柗島堅三   今村清重  石井源一
為我井佐一郎 大野左ヱ門 中里壬子次
設樂仲次郎  溝口喜重  榎本重吉
松岡森藏   古屋政吉

昭和四年七月三十一日有志建之

 建立後百年近いのに石の材質が良いのか風化は進んでおらず、碑文は明瞭だ。戦前の漢文調の文章なので細かいところまで読み下せないが、「昭和三年七月三十一日に豪雨があって、橋沢トンネルの西口で土砂崩れが発生し交通途絶となった。復旧作業の殉職者(二次災害が起こったのだろう)の霊魂に対しこの碑を建てる」という意味であろう。
 ネットで検索しても、この昭和三年七月三十一日の豪雨とか土砂崩れなどの記事は見つからなかったので、図書館に行って当時の新聞を閲覧してみた。


昭和三年八月一日朝日朝刊

中央線のトンネル
豪雨に続々崩壊
甲府への交通途絶す
技手、人夫十三名生埋めとなる

東京を外れた台風
しかし未だに警戒を要する

卅一日朝八丈島付近に現れた台風の中心は遅々として南西の方向に進み同夜九時同島南西約十里の海上に移動したが勢力はだん/\縮小し卅一日朝は四百キロ(百里)内外の区域にわたってゐたものが、夜九時頃にはその半分になってしまったので東京地方はまづ影響をうけずに済んだ、一日は北東の風で雨も降ったりやんだりはっきりせぬが大したことはなかろうといふ観測である、卅一日の暴風雨の区域は和歌山、福島方面化ら新潟地方にわたってゐる、台風はいつ盛り返してくるかも知れないので全国的に警戒を要する状態だ東京の雨量は卅一日正午までが五三ミリ、同正午から午後六時までが一三ミリで風速は九メートル内外であった

【甲府電話】三十日夜来の豪雨から卅一日午後二時中央線上野原与瀬駅■■間■溝四チエンが崩壊し甲府保線運輸両事務所長以下現場に急行復旧工事中午後五時吉野トンネル崩壊し復旧工事中の曾我井技手、設樂工夫長以下人夫十三名が生き埋となり目下全力を挙げて救助中なほ山梨県北都留郡上野原町地内国道十五間決壊し東京、甲府間の交通は全く途絶し列車の復旧は三日を要する予定だが上野原、与瀬駅間約二里の徒歩連絡は山道で不可能であり列車は上野原と与瀬駅から折返し運転を行った

小仏トンネルも崩壊
【八王子電話】三十一日午後九時半頃小仏トンネル東口において約百四十坪崩壊しなほ各トンネルとも危険にひんしつつあるので新宿発下り列車は八王子駅から折返し運転をなすこととなつたが目下のところ復旧の見込みなき状態である


 予想通り台風が停滞して大雨(現在で言う線状降水帯が発生したか)となり、東京は大した影響を受けなかったが中央線沿線では土砂崩れが多発。七月三十一日午後二時頃発生した土砂崩れの復旧作業に当たっていた鉄道関係者が二次災害に遭って生き埋めになったようだ。
 翌日の朝刊には続報が載っている。


昭和三年八月二日朝日朝刊

更に四名の
死体を発見
他は相模川に流れ出たか
中央線現場の惨状

【与瀬電話】中央線橋澤トンネル西口の崩壊で行方不明となった八王子駅詰保線技手松島堅三、建築技手爲我井左一郎、線路工手長設樂仲次郎外工手人夫等八名に対しては森田甲府保線事務所長三十一日来
現場へ出張、人夫二百余名を督励して不眠不休土砂の掘返しにつとめ一日午後二時までに
 与瀬駅詰線路工手組頭松岡森藏八王子駅詰通信工手溝口喜重、横溝組人夫頭古屋政吉、同石井源一
四名の死体を発見したが、その他はまだ行方不明で人夫は暴風雨中を尚時々土砂の崩れ落ちる下で必死に活動しているがまだ不明のものは山から押し出した水と崩壊土砂のために現場下の相模川へ押流されたものではないかと見られ家族等は泣き崩れながら発見を待っている


 前日の第一報では十三名が生き埋めになったと報じられているが、続報では四名の死体を発見し、行方不明者は七名の計十一名になっている。生き埋めになっていなかった人が二名いたのだろう。
 続報は同日夕刊。


昭和三年八月二日夕刊

生埋めの技手等
全部惨死の形跡
小仏付近の山崩れ続出して
不安極度の中央線

【甲府電話】山崩れのため三十一日夜から不通となった中央線は一日に至るも復旧の見込み立たず甲府運輸保線両事務所では総出勤で災害善後処置に努力中だが、与瀬上野原両駅間橋澤トンネル西口付近で山崩れのため埋没行方不明となった八王子保線区の曾我井松島両技手、設樂工手長、線路工手大野七右衛門、中島義夫、松岡盛夫、今村清重、通信工手溝口喜重その他人夫三名合計十一名の救助作業も人夫不足のため進行鈍く、一日早朝同所下流で四名の惨死体を発見したのみで他は全く消息なく全部惨死したものと見られて居る、同所は被害もっとも甚だしく築堤線百五十尺は僅に上流を残すのみで全部付近山川からの出水に洗ひさられ小仏トンネルも二百坪の土砂崩壊あり、付近はトンネル続きの山中だけに浅川与瀬上野原三駅間は徒歩連絡さへ取れぬ状態である、初狩駅構内信号所付近もスイッチバック下り線約三百メートルは岩石混りの土砂で埋められ笹子川はん濫して濁流国道に溢れ復旧作業十分ならず列車は初狩以西、初狩上野原間、浅川以東の三区間に分けて目下折返し運転中だが、初狩上野原間には石炭一万二千貫、機関車八往復しかないので二日朝までに復旧せぬ場合同区間は運転中止の外ない尚中央線から東京に至る旅客はいづれも富士身延線による結果一日の同線乗客は約五倍に激増した


 新たな死体の発見は無く、不明者は惨死したものと推測されている。築堤一五〇尺(四十五メートル)がほぼ流されたと記載されている。
 続報は翌日の朝刊。


昭和三年八月三日朝刊

トンネル崩壊の
現場大作業
小仏は四日中開通か
埋没者を決死的捜索す

【甲府電話】濁流に線路を洗はれ二丈余の土砂たい積等のため不通となってゐる
中央線小仏トンネル、与瀬、上野原間橋澤トンネル西口、初狩沢駅構内東方三ヶ所の復旧工事は新橋、上野、静岡、甲府各保線事務所から三百余名の線路工手を動員し
更に臨時人夫。地方の青年団、在郷軍人、消防組員等をも加へ極力施工中だが今尚雨続きのため橋澤トンネルの遭難者発掘さへ意の如く進まず、埋没者十一名中、四名の死体を発見したのみで五十尺の断がいをロープにすがって下り決死的捜索を続けてゐるが初狩、小仏二ヶ所の埋没線路は四日中に発掘し
開通せしめる予定である最□関は橋澤、天屋両トンネル中間の崩壊線路で築堤は跡形もなく洗はれ二条のレールがなはばしごをかけたやうに残されてゐるのみなので、鉄橋に改めることとなり七十尺の橋げた二つを架設する方針でこの完成までに尚十日を要する


 復旧作業は続いているが、新たな死体発見は無く、鉄道の復旧の方が中心となっている。どうやら橋沢トンネルと天屋トンネルの間は開業時(一九〇一年)からトンネル間に土手を築き(トンネル掘削で出た土砂を使ったのか?)、その上に線路を敷設していたが、この土砂崩れで土手が下の相模川(相模湖は一九四七年完成)に流れ出してしまい、土手を復旧出来ないから橋を架けるしか無いという判断のようだ。それにしても七十尺(二十一メートル)の橋桁を二つ架けるのに更に十日掛かるとあっさり書いているが、当時の鉄道省はそんな出来合の橋桁を幾つも確保していたのだろうか。驚異的な復旧スケジュールである。
 現在の現地は橋桁は一本しかない。トンネルの坑門を延長するなどの防災対策工事の中で、二連だった橋梁を一本に集約したのかも知れない。
 この後も新聞に続報が載ったのかも知れないが、何があったのかは概ね判ったのでこれ以上の深追いをするつもりはない。それにしても、電話取材のせいか、被災者の氏名に間違いが多い。碑に刻まれている氏名が正しいとすると、記事中に氏名が出ている九名中五名が誤字になっている。

碑の氏名   職(所属)       誤字

柗島堅三   保線技手(八王子駅)  松島
今村清重   線路工手(八王子駅)  喜重
石井源一   横溝組人夫頭
為我井佐一郎 保線技手(八王子駅)  曾我井 左一郎
大野左ヱ門  線路工手(八王子駅)  七右衛門
中里壬子次  
設樂仲次郎  線路工夫長(八王子駅)
溝口喜重   通信工手(八王子駅)
榎本重吉   
松岡森藏   線路工手組頭(与瀬駅) 盛夫
古屋政吉   横溝組人夫頭

 線路脇にひっそり佇んでいる忠魂碑だが、犠牲者が主に鉄道職員だったため百年経っても鉄道会社の手で整備されているのであろう。

24042102

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2024年1月 3日 (水)

市子

市子(二〇二三年 配給:ハピネットファントム・スタジオ 監督:戸田彬弘)

 地元の映画館の上映予告を見て、ちょっと面白そうだなあと思っていた映画。公開前にTBSラジオの「こねくと」で町山智浩が「今年の邦画でベスト」と言っていたので公開二日目に鑑賞。時系列が複雑かつ、最後まで説明しない構成のため、鑑賞後色々な謎解きと推測が頭を離れず、一週間後にもう一度鑑賞。生まれて初めて映画のパンフレットを買って、市子の年表を見て答え合わせをする。但し、答え合わせをした上でもう一度確認したい場面も多く、もしかするともう一度見に行くかも知れない。間違いなくDVDなどのパッケージになったら購入すると思う。
 予備知識無しで観て、さほど泣ける場面も、笑える場面も、スリリングな場面も無い。だけど観終わって色々考えると、だんだん辻褄が合ってくる。そしてもう一度観直すと、あらゆる伏線が繋がってきて、ああなるほどと合点がいく一方で、主人公に対する喜怒哀楽などで分類できない不思議な感情が生じる。生まれてこの方、映画を見たあとに何週間もその映画のことを考えるなどという体験はしたことがなかった。
 観終って豊かな気持ちや、楽しい気持ちになる映画ではない。むしろ重い気持ちにしかなれない映画だ。サスペンスとして考えれば筋書きに若干無理な部分もあるが、それを超えた素晴らしい脚本、そして役者達の素晴らしい演技、私の中の映画ベストスリーに入る映画だ。
 ただひとつ、どうしても違和感を感じた点がある。音響である。
 建物の中で二人の人間が対話する場面が大半のこの映画で、カメラのアングルが切り替わるたびに、音場が入れ替わるのだ。画面に写っている人物の声が前から、それに応える相手の声がサラウンドで背後から聞こえる。画面が切り替わると逆になるのだ。映画館というある程度広い空間でこれをやられると、前後の人物が目まぐるしく入れ替わるので、台詞に集中できないだけでなく、船酔いしそうになってくる。このような映画でサラウンド音響を駆使するのは邪魔でしかない。
 最終的には監督の責任なのだが、日本映画の音響のレヴェルがいまだこの程度で、折角のいい映画にケチを付けているのが残念でならない。DVD化されて購入したら、モノラルの片耳イヤホンで聞いてやろうと思う。恐らく何一つ問題はないどころか、より台詞に集中できるはずだ。ただし、エンドロールの部分だけは両耳イヤホンでしっかり聴いたほうがいいと思う。

(追記)
二〇二四年六月十一日新文芸坐(池袋)

 三月から配信が始まったが、七月にDVDが発売されるようなので、それが出たら観直そうと思っていたのだが、池袋の新文芸坐で上映していたので、スクリーンでもう一度観直してみた。
 一回目と二回目を観た立川キノシネマに比べると新文芸坐は箱が大きいので、音響についての違和感は増幅した。長谷川となつみが対峙する屋外(漁港)の場面まで音場が前後に入れ替わるのは違和感しかなかった。
 映画自体の感想は、本当によく作り込まれた映画だと改めて思った一方、市子に感じる思いが観直す度に気の毒から怖いに振れていくのを感じる。出生や置かれた環境の不幸さに最初は目を奪われて同情を禁じ得ないのだが、次第に市子という人間が身に着けてきた生き方に恐怖を感じるようになる。ケーキ屋の場面で、特にそれを強く感じ、以降の市子はサイコパスにしか見えなくなってしまった。
 この映画が一回観ただけでは理解しにくい大きな理由が、特に映画の前半では時空がコロコロ入れ替わるからなのだが、最初の方で後藤刑事が示す「一九八七年生まれ」というところから計算して、それぞれの場面を「市子が〇歳の夏」と勘定して観ると時間軸が判りやすいと思う。そう、この映画はほとんどの場面が夏の描写である。蝉の声、汗、青空、夕立、ガリガリ君、花火、夏祭り。転々と夏の場面がつなぎ合わされていき、大きな二つの事件が起こるのは、実は同じ二〇〇八年の夏であることが、三回目にして理解できた。でも、時間軸に沿って場面を並び替えて観たとしても、流れは把握しやすくなっても面白くないのだろうなあ。

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2023年12月29日 (金)

展覧会の絵の大太鼓

ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」(一八七四) ラヴェル編曲管絃楽版(一九二二)

 新世界よりのティンパニについて書いたついでに、展覧会の絵についても気になっていたことがあるので調べてみた。
 ラヴェル編の管絃楽版、終曲「キエフの大きな門」の最後のクライマックスと言える部分、練習番号一二〇の「poco a poco rallentando」の二小節目と五小節目の各二拍目に大太鼓の一打がある。どれだけ腹に響く音が出せるか、大太鼓奏者の見せ場というべき部分だ。
 演奏によってこの大太鼓が半拍遅れるのだ。最初は奏者の叩き損ないかと思ったのだが、二回ともきれいに半拍遅れるとなるとそうでもなさそうだし、更に色々な演奏で聴き比べると、結構な割合で半拍遅れる演奏があるのだ。
 最初に気がついたのはイーゴリ・マルケヴィチが最後にN響に客演した一九八三年一月二三日の演奏だったと思う。これはテレビで見たのだが、後に音源、映像ともに何度か商品化されている演奏だ。実演で気がついたのは一九八七年六月二一日の山田一雄指揮新交響楽団の演奏。これは抜粋だがプライヴェート版のCDになっている。
 これも恐らく楽譜に何か問題があるのだろうと思って調べてみた。幸いにもインターネット上には、ラヴェルの自筆譜だけではなく、ムソルグスキーの原曲の自筆譜も掲載されている。ラヴェル編曲版までの経緯を調べると、ムソルグスキーの原曲(ピアノ)の次に、リムスキー=コルサコフが改訂した出版譜があって、ラヴェルは編曲にあたり原曲の楽譜が手に入らなかったため、コルサコフ版のピアノ譜を元に編曲したとされている。そのコルサコフ版ピアノ譜も見ることができた。

 問題の部分を整理すると、この曲「キエフの大きな門」は、基本二分の二拍子の曲だが、ピアノの原曲では二拍三連が多用されている。ラヴェルはこれを編曲する際に、二拍三連が続くパートについて拍子を二分の三拍子に変更して編曲しているのである。その拍子変更がパートごとにバラバラに行われているので、該当部分の直前からスコアに記載されているシンバルと大太鼓のパートが何拍子なのかが、ラヴェルの自筆譜の段階で判らなくなっているのだ。

 キエフの大きな門後半のクライマックス部分、十六部音符で下降してきて、ルフトパウゼの後練習番号一一五「Meno mosso semple maestoso」から管楽器と打楽器は引き続き二分の二拍子のままだが、絃は二分の三拍子になる(ピアノ譜では二分の二拍子のまま、ずっと二拍三連符で進行していく)。そして練習番号一一九(問題箇所の八小節前)からフルート、オーボエ、クラリネット、ホルンが二分の三拍子になり、その四小節後からトランペットが、更に四小節後の練習番号一二〇「poco a poco rallentando」からバスクラリネット、ファゴット、トロンボーン、チューバ、ティンパニが二分の三拍子になる。シンバルと大太鼓は練習番号一二〇の二小節前からスコアに記載されるが拍子記号は無く、練習番号一二〇にも拍子記号は無い。
 そしてそこから大太鼓は「全休符|二分休符+四分音符+四分休符|全休符|全休符|二分休符+四分音符+四分休符|全休符」となっているので、一小節の中は二分音符が二つ入る二分の二拍子に見える。だとすれば二分の三拍子である他のパートと二拍目の四分音符は合わないのが正しく、他の全パートの二拍目の裏に大太鼓の「ドスン」がズレて聴こえるのが正解なはずだ。だが一方で、ティンパニのパートで拍子変更しているので、打楽器全体が二分の三拍子になっているので、二分休符が一つ書き忘れられているという推測もできる。

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(ラヴェルの自筆譜)


 回りくどく書くのはやめると、次の練習番号一二一で、シンバルと大太鼓にも二分の二拍子の拍子記号が付けられているので、練習番号一二〇はシンバルと大太鼓を含む全パートが二分の三拍子。二拍目は揃うのが正解である。改訂された楽譜には、二小節目と五小節目の四分休符の後に二分休符が書き加えられている。そもそもラヴェルともあろう人がクライマックスで大太鼓だけズレるような珍妙なオーケストレーションをするわけがないと思う。自筆譜が間違っているのを、一九二九年初版のロシア音楽協会(パリ)版では修正されているのだが、一九六五年頃発行のムジカ社(モスクワ)版では自筆譜通りに戻している。この頃から間違いが始まったのではないだろうか。

 だのに大太鼓がズレる演奏が一定数存在するのは、間違った楽譜通りに演奏すると実に奇妙な世界が現れるので、楽譜通りという建前にして、指揮者と打楽器奏者が面白がってやっているのだろう。流石にリハーサルで気が付かない指揮者はいないと思う。

 ウェブに上がっている音源や手元の音源で確認した感じでは、以下のような感じだ。一九六五年以前の録音でも二拍子で叩かせているように聞こえるクーベリックとロジンスキーの録音は、叩き損なっているようにも聞こえるので微妙ではある。また、同じ指揮者でも扱いが変わっている三人(マルケヴィチ、チェリビダッケ、山田一雄)が偶然だが三人とも一九一二年生まれというのも面白い。

(二分の二拍子)
クーベリック/シカゴ響(一九五一)?、ロジンスキー/ロイヤル・フィル(一九五五)?、アンチェル/チェコ・フィル(一九七四)、マルケヴィチ/N響(一九八三)、山田一雄/新響(一九八七)、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル(一九八九)、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル(一九九三)、ゲルギエフ/ヴィーン・フィル(二〇〇〇)、シモノフ/モスクワ・フィル(二〇一一)、

(二分の三拍子)
クーセヴィスキー/ボストン響(一九三〇)、トスカニーニ/NBC響(一九三八)、トスカニーニ/NBC響(一九五三)、マルケヴィチ/ベルリン・フィル(一九五三)、ライナー/シカゴ響(一九五七)、アンセルメ/スイス・ロマンド管(一九五九)、レイボヴィッツ/ロイヤル・フィル(一九六二)、セル/クリーヴランド管(一九六三)、カラヤン/ベルリン・フィル(一九六五)、マルケヴィチ/日本フィル(一九六五)、山田一雄/日本フィル(一九六八)、マルケヴィチ/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管(一九七三)、カラヤン/ベルリン・フィル(一九七九)、チェリビダッケ/ロンドン響(一九八〇)、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル(一九八六)、カラヤン/ベルリン・フィル(一九八六)、カラヤン/ベルリン・フィル(一九八八)、山田一雄/新星日本響(一九九一)、小林研一郎/日本フィル(一九九九)

 

 

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2023年12月21日 (木)

新世界のティンパニ

 ドヴォルザーク:交響曲第九番ホ短調作品九十五「新世界より」

 私は小学校高学年でクラシック音楽(特にオーケストラ)に興味を持ち、ドヴォルザークの「新世界より」のファーストチョイスはバーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルのCBS盤(当時はまだグラモフォンの新盤は録音前)だった。甚だファーストチョイスに向かない選択だったと思う。
 その後FMのエアチェックなどで他の演奏も聴くようになり、第一楽章序奏部の最後(二十二小節)のティンパニの叩き方が、二通りあることに気がついた。ティンパニを擬音で書くと「ウン、ダン、ウン、ドロロロロ~」と叩いているものと、「ウン、ダン、ウン、ダン、ドロロロロ~」と叩いているものに分かれているのだ。
 中学に入って吹奏楽部に入部し、打楽器を担当するようになった。二年生の時、第四楽章の吹奏楽版を演奏することになり、参考用に音楽之友社のポケットスコアを購入した。私は今でも楽譜は読めないが、追うことは出来る。スコアで件の部分を確認すると、「十六分休符、十六分音符、十六分休符、十六分音符、四分音符トレモロ」となっている。

(音友スコア)

Ongakunotomo_score_20231221104801

 

 

 つまり「ウン、ダン、ウン、ダン、ドロロロロ~」が楽譜通りで、最初に聴いたバーンスタイン盤などの「ウン、ダン、ウン、ドロロロロ~」は二つ目の十六分音符からトレモロにしてしまっているので、ティンパニ奏者が譜読みを間違っているのか、指揮者による改変であることが判った。
 以来数十年も新世界を聴いているのだが、印象として楽譜通り派と改変派では、「ウン、ドロロロロ~」の改変派が相当数いると感じられるので、どうもティンパニ奏者の譜読み間違いなどではなさそうだし、指揮者の解釈にしては蔓延し過ぎの感がある。幸いネット時代の今日では、著作権切れの楽譜を公開しているサイトがあるので、そこを覗いてみた。
 新世界よりのスコアは、ジムロック版(一八九四年・初版)、SNKLHU版(一九五五年)、ブライトコプフ版(一九九〇)の三種がアップロードされており、その何れもが、私が改変版と認識していた「ウン、ダン、ウン、ドロロロロ~」(トレモロが二つ目の十六部音符から付いている)で記載されている。

(ジムロックスコア)

Simrock_score

 

 


(Snklhuスコア)

Snklhu_score

 


(ブライトコップフスコア)

Breitkopf_score

 

 

 

 トレモロの波線が十六部音符から四分音符まで伸ばされており、十六部音符の下のフォルツァティシモ(ffz)からディミヌエンド記号(>)が次小節の八分音符のピアノ(p)まで続いているので、どう考えてもひと続きのトレモロがディミヌエンドしていくのが正しい演奏となる。
 そこで今度はパート譜を見てみる。スコアと同じジムロック版(一八九四年・初版)、SNKLHU版(一九五五年)、ブライトコプフ版(一九九〇年)の三種がアップロードされているが、ブライトコプフ版はスコアと同じなのに対し、ジムロック版とSNKLHU版は「ウン、ダン、ウン、ダン、ドロロロロ~」となるように、トレモロ記号が十六部音符ではなく四分音符の上に付いているのだ。

(ジムロックパート譜)

Simrock_part

 

 

 


(Snklhuパート譜)

Snklhu_part

 

 

 

(ブライトコップフパート譜)

Breitkopf_part

 

 


 どうやら事の真相は、初版の段階でスコアとパート譜に相違があり、どちらかが間違っていると考えられる。こうなると音楽学者に自筆譜を調べてもらわないと、どちらが正しいのかは判らない。ただし、出版年が新しいブライトコプフ版では揃っているので、より校訂の目が入っている新しい版が正しいと推測は出来る。ただし確証が無い。そう思って何か手がかりはないかと思っていると、同じ楽譜のサイトに、ドヴォルザーク自身による四手ピアノ編曲版があることに気がついた。こちらの該当部分を見てみると、間違いなく「ウン、ダン、ウン、ドロロロロ~」と記されている。これで決着が付いた。

(四手編曲版)

Piano

 

 

 

 

 結論を言うと、初版のパート譜が間違っていて、それがずっと踏襲されていた。音楽之友社版のスコアは誰が校訂したのか知らないが、間違っていたパート譜の方に寄せてしまったということだろう。

 さて、結論は出たものの、最初のパート譜の間違いが、これ程まで間違った演奏の蔓延を招いているらしい状況を考え、実際にはどれくらいの割合になっているのかが気になった。Blue Sky Lebelという著作権切れのクラシック音楽の音源を公開している大変有り難いサイトがある。そこに上がっている音源を中心にYouTubeなども覗いて、色々な録音を聴いてみた。
 その結果、この部分のティンパニの演奏パターンは、この二種類ではないことが判った。

一、「ウン、ダン、ウン、ドロロロロ~」作曲者の指示通り
二、「ウン、ダン、ウン、ダン、ドロロロロ~」初版のパート譜通り
三、「ウン、ダン、ウン、ドロロ、ドロロロロ~」二回目の十六分音符をトレモロにして、四分音符のトレモロを叩き直す
四、「ウン、ダン、ウン、ダンロロロロ~」トレモロをディミヌエンドにせず、フォルツァティシモピアノ(ffzp)にする

 誰がどう演奏しているのかを年代順に纏めると次の通り・
一、「ウン、ダン、ウン、ドロロロロ~」作曲者の指示通り
メンゲルベルク/コンセルトヘボウ管(四一)、ケンペ/ベルリン・フィル(五七)、ヴァルター/コロンビア響(五九)、セル/クリーヴランド管(五九)、ケルテス/ヴィーン・フィル(六〇)、パレー/デトロイト響(六〇)、ジュリーニ/フィルハーモニア管(六一)、バーンスタイン/ニューヨーク・フィル(六二)、カラヤン/ベルリン・フィル(六六)

二、「ウン、ダン、ウン、ダン、ドロロロロ~」初版のパート譜通り
クライバー/ベルリン国立管(二九)、セル/チェコフィル(三七)、トスカニーニ/NBC響(五三)、イッセルシュテット/北ドイツ放送響(五三)、フリッチャイ/ベルリン・フィル(五三)、ロジンスキー・ロイヤル・フィル(五四)、ターリッヒ/チャコ・フィル(五四)、クーベリック/ヴィーン・フィル(五六)、ライナー/シカゴ響(五七)、バルビローリ/ハレ管(五八)、アンチェル/ヴィーン・フィル(五八)、シルヴェストリ/フランス国立放送管(五九)、カイルベルト/バンベルク響(六一)、アンチェル/チェコ・フィル(六一)、ホーレンシュタイン/ロイヤル・フィル(六二)、ケルテス/ロンドン響(六六)、カラヤン/ヴィーン・フィル(八五)、など

三、「ウン、ダン、ウン、ドロロ、ドロロロロ~」二回目の十六分音符をトレモロにして、四分音符のトレモロを叩き直す
オーマンディ/フィラデルフィア間(五六)、シルヴェストリ/フランス国立放送管(五七)、フリッチャイ/ベルリン・フィル(五九)、クーベリック/チェコ・フィル(九一)

四、「ウン、ダン、ウン、ダンロロロロ~」トレモロをディミヌエンドにせず、フォルツァティシモピアノ(ffzp)にする
セル/クリーヴランド管(五二)、イッセルシュテット/北ドイツ放送響(五七)、カラヤン/ベルリン・フィル(五七)、カラヤン/ベルリン・フィル(六四)

 割合は概ね一が四分の一、二が半分強、三と四は一割程度という分布である。その中でもセルとカラヤンは一二四の三種類、ケルテスは一二、イッセルシュテットは一四、クーベリックは二四の二種類の叩き方をしている。これが意味するところは、指揮者にとってこの部分のティンパニはどう叩こうがさほど問題ではないということではないか。

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2023年12月17日 (日)

ルイージの千人

NHK交響楽団第二〇〇〇回定期公演

二〇二三年一二月一六日(土)NHKホール

マーラー/交響曲第八番変ホ長調「千人の交響曲」

独唱/ジャクリン・ワーグナー、ヴァレンティーナ・ファルカシュ、三宅理恵(ソプラノ)、
   オレシア・ペトロヴァ、カトリオーナ・モリソン(アルト)、ミヒャエル・シャーデ(テノール)、
   ルーク・ストリフ(バリトン)、ダーヴィッド・シュテフェンス(バス)
合唱/新国立劇場合唱団、NHK東京児童合唱団
管絃楽/NHK交響楽団
指揮/ファビオ・ルイージ

 N響の第二〇〇〇回定期公演を聴く。コロナ以降初の「千人」なので聴き逃がせなかった。N響の千人は一九四九年山田和男、一九九二年若杉弘、二〇一一年デュトワ、二〇一六年P.ヤルヴィに続く五回目。

 久々のNHKホールは張り出し舞台を最大に出して、音響反射板を一間程後ろに下げた状態(デュトワの時と同様)だが、編成はオケが十六型で、ハープが四台いる以外は最小編成。混声合唱は約一二〇人、児童合唱は約五〇人で、舞台上全部で三百人くらい。おそらく千人を上演するには最少の人数。なお、ティンパニは二対で両手打ちは無し。

 とにかく声楽が重要な曲なので、合唱の出来が重要なのだが、新国立劇場合唱団はさすがプロと感心させられる出来。正に少数精鋭という感じで素晴らしかった。児童合唱も安心のN児。人数もそこそこいるので、埋もれることなくしっかり聞こえていた。これは当たり前なのだが、日本国内では児童合唱を揃えるのは大変だから、N児がキャスティングできれば間違いないのである。
 一方独唱陣は酷い。ルイージの人選なのだろうか。第二ソプラノとテノールが特に酷く、中でもテノールは何とか唱い切ったレヴェル。声は悪いし、唱い切れない部分を誤魔化してばかり。ほぼブチ壊しに近い出来である。そして、第二ソプラノは単に下手。そして重唱部分ではフレーズの終わりがバラバラ。歌手も悪いが指揮者はもっと悪い。 オケも管楽器にミスが散見される注意力散漫な演奏。特にこの曲に沢山ある、フレーズの終わりでルバートして次で戻るような部分が揃わない。縦の線を合わせるという話ではなく、指揮者のやりたいことが奏者に伝わっていない感じがする。
 ルイージの指揮は取り立てることもない。テンポは中庸で目立った外連も工夫もない。第一部の二六二小節(Accende~の部分)にかなり速いテンポで突入したので、オヤっと思ったが、合唱が唱い切れず、途中から普通のテンポになってしまい消化不良な気がした。一番の問題は、曲に対する指揮者の思い入れが感じられなかった所か。
 N響レヴェルのオケになれば、千人も特別な祭りではなく、定期公演で取り上げる編成大きめの曲という程度なのだろう。二〇〇〇回だから特別という感じは無かったのは構わないのだが、独唱陣の力不足で不出来な演奏というイメージが残ってしまった。久々の千人だったのに途中で飽きてしまい、早く終わらないかなあと思ってしまった。何とも残念である。

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2020年10月17日 (土)

小笠原航路

おがさわら丸(三代目)
小笠原海運 貨客船 一一、〇三五総噸
全長一五〇m 航海速力 二三、八ノット
二〇一六年 三菱重工下関造船所で建造

ははじま丸(三代目)
伊豆諸島開発 貨客船 四九九総噸
全長六五、二m 航海速力 一六、五ノット
二〇一六年 渡辺造船所(長崎)で建造

 私の勤務する会社では勤続十五年と二十五年で勤続休暇を取らなくてはいけない。私は去年が勤続二十五年で、今年中に四連休を取らなければならない。コロナ騒動で旅行がしづらい中、念願の小笠原へ行くことにした。
 船ヲタ、島ヲタである私は、十五年ほど前に小笠原渡航を計画し、当時は便乗可能だった共勝丸の予約までしたのだが、台風直撃であえなく断念。それ以来のリベンジである。十五年の間におがさわら丸、ははじま丸ともに三代目に代替わりしている。

 コロナ騒動のおかげで、任意ではあるがPCR検査を受ける。小笠原海運から送られてきた検査キットに唾液二ccを採取して、東京発の前日か前々日に竹芝桟橋の受付に提出する。前日の夕方までに連絡が無ければ陰性だったという事なのだが、毎日通勤電車に乗っている私は陽性だったとしても不思議はない。久しぶりにドキドキしながら待機する経験をしたが、陽性の連絡は来ず無事に乗船が叶う。

 三代目おがさわら丸は、浦賀水道で釣りをしていて間近に見たことはあるが、垂直ステムが印象的な船だ。貨客船でコンテナを積載するので、巨大なハウスに対して船首船尾ともに甲板が低い。これが見た目を悪くしている。船内はコロナ対策で定員を絞っているので快適。私は二等寝台を取ったが、二段ベッドは下段しか使っていない。船内は自動販売機コーナー、売店、レストラン、展望ラウンジの供食設備があるが、値段は高めだ。売店に電子レンジがあるので、冷凍パスタに心惹かれるが、内地で普通に食えるものを選ばずともと思い、レストランやラウンジで食事をした。
 往復とも東方沖に台風がある気象状況だったので大きくうねりが入り、東京湾の外ではかなり揺れる航海。フィンスタビライザーが効いてローリングは全く無いが、盛大なピッチングは避けられない。これは、波を切り裂く形状の垂直ステムでもどうにもならないようだ。船が揺れると外甲板が閉鎖されるのがつまらない。六デッキの後部だけは開放されているので、閉鎖される二十二時まではここで過ごすことが多くなる。ここでは船尾側のデリックが目の前にあるので、遠目では解りにくいデリッククレーンの構造がじっくり観察できる。
 また、おがさわら丸は衛星公衆電話を二台設置してあるが、無線LANなどは無い。携帯が繋がらない洲崎沖から父島まで通信は途絶する。私のように何の連絡も来ない人間は構わないが、スマホ依存の現代人には少々厳しいかも知れない。まあ、小笠原に行くこと自体が現代社会からの隔離みたいなものなので仕方ないのだろう。

 さて、到着初日はそのまま母島へ渡って一泊しようと思っていたのだが、母島の宿は全て満室。なので、母島に渡るのは三日目に回して南島ツアーに参加する。民宿に荷物を置いて午後のツアーに参加。憧れの南島に上陸し、千尋岩(通称ハートロック)、ジニービーチ、境浦の濱江丸などを間近で見ながら回るがイルカには遭遇できず。イルカ目当ての同乗者たちは残念そうだったが、泳ぐ気のない私は座礁船が身近に見られて大満足。
 二日目は嫁島へ行くドルフィンスイムツアーに参加。さすがに今日は泳がないわけにはいかず準備をする。嫁島でいきなりイルカに遭遇して泳ぐが、十数年ぶりのシュノーケリングでペースがつかめずヘロヘロになる。以降は湾のようなうねりの少ないところでのみドルフィンスイムに参加する。嫁島周辺を少し探ったところで船長が「四十分ほど走ります」と宣言。GPSの地図を見ると媒島か聟島へ向かうようだ。昼頃に聟島の小花湾に船は停泊し、昼休み&自由時間となる。まさか聟島へ行けて、更に上陸が出来るなどとは思っていなかったので狂喜。メシは後でいいからまずは上陸。砂浜は暑いらしいのでサンダルを持って。そして、上陸の軌跡を残したいのでGPS受信機を持って浜まで泳ぐ。望外の聟島上陸だ。砂浜は漂着したゴミだらけなのは残念だが、取り敢えず高台に登って景色を眺め写真を撮る。少し泳いで船に戻るが、カマスの群れがいたのでついつい潜水して観察する。そして船に戻るとGPSから警告音。「電池がありません電源を切ります」という表示が出ているが、電池は朝入れたばかり。そして画面が内側からの結露で曇っている。ここで五年ほど使ったGPSトレッキングナビ(ガーミン/GPSMAP64sJ)は息絶えた。その後龍の口で泳いだり、針の岩や媒島、嫁島周辺でドルフィンスイムをして父島に戻ったのは十七時半。
 三日目は7時30分発のははじま丸で念願の母島へ。
 ははじま丸はおがさわら丸と同じく三代目。三菱重工か内海造船製が多い東海汽船系列では初の、渡辺造船(長崎)が建造した船だ。下田のフェリーあぜりあ(内海造船)、あおがしま丸(三菱下関)と同じ五百トン級の貨客船で、長いバルバスバウ(球状船首)と荷役用のクレーンが特徴だ。同じ頃に建造された三隻の貨客船が、フェリーあぜりあはデリックを、あおがしま丸とははじま丸はトラックに付いているようなクレーンを採用しているのが興味深い。その違いは何なのかは判らないが、好みとしては従来のデリックの方が、荷役作業を見ていて楽しいと思う。さておき、滅多に見ることの出来ないははじま丸は、いかにも離島航路向けの精悍な船という印象だ。
 母島に着くとレンタバイクを借りる。島の北部にある東港、北港まで行ってから、今度は島の南側を目指す。都道の終点にバイクを置いて、母島最南端の小富士を目指して歩く。山道だが距離は二キロ程で大した距離では無い。しかし猛烈に暑いのだ。一昨日の南島もそうだったが、地上を歩いているととにかく暑い。体感温度は間違いなく体温以上だ。船の時間もあるので取り敢えず行きは早足で歩く。小富士直前が急な登り、最後ははしごを登って小富士の山頂に立つ。目の下に南崎海岸、鰹鳥島を見渡せる絶景であるが、とにかく暑い。日陰が無くて風も無い。逃げ場が無いのである。絶景を楽しむ余裕も無く引き上げる。
 母島航路は往復とも鏡のようなベタ凪。湖の遊覧船のような静かな航海で、ずっと甲板のベンチで過ごすことが出来て快適だった。海が荒れるとどんな感じなのか知りたいと思うのは贅沢な望みかも知れない。父島に戻ると二見港には共勝丸が着いている。共勝丸、おがさわら丸、ははじま丸の三隻が並んでいるので高台から写真を撮ろうと思ったのだが、船を下りた途端にスコールが来てしまい、いつまで待っても止まない。この日は残念ながらスリーショットは撮れなかった。
Ogahaha

 最終四日目のおがさわら丸出港までが父島観光。早起きして船の写真を撮りに行くが既に共勝丸の姿は無い。残念だが大神山の展望台に上り残り二隻の写真を撮るが、思ったほどいいアングルで撮れなかった。宿で朝飯の後、レンタバイクを借りて父島探索。途中スコールが来たので、Tシャツと海パンに着替える。島の北部から二見湾沿いを回り、コペペ海岸、小港海岸、常世の滝を見て中央山に登る。ここで再び激しいスコール。展望台の階段の下で暫く雨宿りをする。
 私は離島に行くと、その島の最高峰に行ってみたいと思う。母島の乳房山には時間的に行く余裕は無かったが、父島の中央山には登ることが出来た。しかし本当は父島の最高峰は標高三一九メートルの中央山ではなく、中央山の南東約六百メートルにある標高三二六メートルの名前の無い山だ。しかしそちらには道が無いどころか、都道沿いに動物除けのフェンスが続いており近づくことも出来ない。なので、七メートル低い中央山で納得するしかない。
 雨が上がったので次は初寝浦に向かう。都道から歩いて二キロほどだが標高差が二百メートル位ある。再び雨も降り出したので、山道の脇ににリュックをデポして歩くが、石鹸があれば頭が洗えるような激しい雨で、登山道を沢のように水が流れる。誰もいない初寝浦に辿り着いたが、まるで見通しがきかない土砂降りなので引き返す。日頃運動不足の体に標高二百メートルの急登はきつい。ようよう都道まで戻った頃にスコールは去って青空が戻る。全く間が悪い。
 昨日の小富士、今日の初寝浦に行ったのには訳がある。それはこの二ヶ所が東京都の東と南の涯だからである。いや、地理的には東京都の東端は南鳥島、南端は沖ノ鳥島だ。しかし、自力で行ける、ガイドの同行や船のチャーターが必要でなく、普通に歩いて行けるという縛りだと南端は小富士、東端は初寝浦というのがオレルールなのである。もっとも遥かに行きやすいはずの東京都の北端(天目山付近)と西端(雲取山付近)に行くつもりはないのであるが。
 おがさわら丸の出港は名物のレジャー船団の見送りが行われる。「行ってらっしゃーい!」と叫んで次々海に飛び込んでいく光景は微笑ましい。小笠原は今日本国内で一番行きにくい観光地だと思う。六連休が必須ということは、行けない人は生涯行けないが、行ける人は何度も行くのかも知れない。二日目の聟島ツアーの参加者は八名だったが、私以外は全員船長から○○ちゃんと下の名前で呼ばれてる常連ばかりだった。遠ざかる父島を眺めながら、「次に来るのは定年後か、あるいは最初で最後の小笠原旅行だったのか」と思ったが、帰宅して冷静になると、その気さえあれば来年も行けそうだと思うのである。

 

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2020年6月 1日 (月)

鮎釣り二〇二〇

・九月十八日(金)中津川(坂本) ゼロ

 世間は四連休だが、私は二十一日が出勤なので、その代休をとって平日釣行。相模川本流は濁っているので、中津川のいつもの場所に入るが、今日は平日なのに釣り師がかなり居る。
 水は僅かに濁りが残っているが平水。ただし垢は無く、喰み跡も無い。動き回れないので浅い瀬で細かく探る。風が強くて非常にやりにくい。午前中二時間弱竿を出したが、小さなカジカが一匹掛かっただけで終了。今期の鮎釣りもこれで終了にする。

 釣行十一回で釣果二匹。十年以上鮎釣りをしているが、言うまでも無く最悪の成績だ。長雨から猛暑という天候で、鮎が育たなかったという分析は可能だが、それにしたってひどすぎる。相模川の年券を買っているので他の川に転戦しなかったのも敗因だ。そもそも相模川本流ではほぼ鮎を釣った事がない。へら池でも使えるからと言うさもしい了見で年券を買ったのが失敗だったのか。よく分析をして来年の方針を考えたいと思う。

・八月二十五日(火) 相模川(六ツ倉) ゼロ

 今日から夏休みで六連休。当初は米代川遠征を決めていたのだが、地方では東京ナンバーのクルマは目の敵にされるという情報なので遠征は断念。全くノープランで夏休み突入。取り敢えず相模川に行くが、相変わらず絶不調。水も澄んで喰み跡も見られるが、追う気配はさらに無し。釣り師は何人か見えるが、誰も釣れていなくて、十一時過ぎ頃にはみんな引き上げてしまう。一本瀬が貸切になったところで広く探ってみるが、どうにも反応が無い。今年に関して言えば、秋刀魚と鮎は早めに見切りを付けるべきなのかも知れない。

・八月十八日(火) 中津川(坂本) ゼロ

 平日休み二日目は、今年のホームグラウンドとなりつつある中津川へ。見渡す限り釣り師も水遊びも居ない。やはり平日釣行はいい。水位も下がり澄み切った水は二十二度。今日こそは釣れるだろうと思い探るが気配が無い。独り占めの瀬を土俵掃き釣法で探るが反応なし。一時間半ほどで囮を二匹目に替えて、仕掛けもずっと使っている一本針から三本錨に変更。再び広く探るが反応が無い。
 幾つかの石には喰み跡も見られるし、水温もベスト。魚はあちこちで跳ねている。あの跳ねている魚や、浅瀬で群れているのは、鮎ではなくハヤなのだろうか。鮎釣りは、一場所、二オトリ、三に腕といわれるくらいで、縄張り鮎が居るところに囮鮎が近づけば、腕にかかわらず釣れるものだ。私は下手の横好きではあるが、ガンガン瀬でもない限り、囮をコントロールは出来ていると思う。何故釣れないのだろうか。
 元が取れるか心配だった相模川の年券も、今日が八回目の釣行で無事元は取った。釣果はたった二匹であるが。

・八月十七日(月) 相模川(六ツ倉) ゼロ

 お盆の土日は出勤当番だったので、解禁日以来の平日釣行で解禁日以来の相模川本流へ。水量は平水だがやや濁りが残っている。猛暑で垢腐れ気味だが、結構魚は跳ねているので悪くない感じだ。解禁日と同じ高田橋下流の一本瀬の一番下に入る。周りに釣り師は居ない。
 囮屋の親父が「釣れるのは流芯、野鮎が取れたら流芯へ。ただ、ヘチが釣れないから、一匹目を釣るまでが大変」と言われたので。まずは浅いチャラチャラした瀬を広く探る。水温も二十二度あるので、囮を弱らせないよう丁寧に泳がせる。一時間反応が無いので囮を交換して更に一時間半。ずっと釣れる気がしていたのだが、結局一度も反応なし。ここまで釣れないと呆れるが、才能が無いと諦めるしか無い。

・八月十日(月祝) 中津川(坂本) ゼロ

 連休最終日は一昨日と同じ中津川へ。一昨日は数名釣り師が居たが、今日は私だけだ。その代わり水遊びの客は相当居る。八菅橋の前後などはサマーランドのプールのような状態だった。水遊び客と距離をとりながら、貸切の瀬を広く探る。喰み跡のある石もあり悪くなさそうなのだが、全く気配が無い。十一時頃になるとこっち岸の大タープを広げた家族連れが、街宣車かと思うような大音量で音楽を流し始める。イヤホンで聴いていたラジオが聞こえないレヴェルの音量で、見るとクルマの後部に巨大なスピーカーが積んである。やれやれと思っていると、向こう岸ではカップルが、私が釣りを始める前から酒盛りをしながらじゃれ合っていたのだが、遂には膝の上に向かい合って座ってパンツの中をまさぐったりし始めた。
 流石に馬鹿馬鹿しくなって納竿。相模川の本流あたりだと水遊び向きでは無いので、これほど手に負えない状況にはならないのだが、濁りが抜けないので仕方が無い。早く相模川の濁りが抜けて竿が出せる状況になってほしい。

・八月九日(日) 丹波川(道の駅下) ゼロ

 三連休中日は早起きして丹波へ。水の色はまだ増水の名残がある感じ。元々上流部で垢付きの悪い川だが、完全な白っ川。鮎の気配も無い。去年いい思いをした道の駅下で竿を出すも気配なし。橋をくぐって上流に移動して驚く。以前は左岸側を本流が流れ、右岸側に村営釣場の区画渓流があった。姪っ子達が小さかった頃何度か釣場を利用したことがあったのだが、今は釣場があった側に本流が流れており、釣場は跡形も無い。去年の台風から復旧していないのか、今年の雨でやられたのか。夏の稼ぎ時にまともに営業できないのは気の毒な話だ。というわけで、あれた河原を一直線に流れる渓相になっており、全く気配もなし。粘っても無駄と早々に切り上げる。
 昼過ぎには帰途につくが、吉野街道の対向車線は梅ヶ谷峠口から古里まで断続渋滞。県境をまたげない律儀な都民達は一斉に奥多摩を目指してきたようだ。

・八月八日(土) 中津川(坂本) 二匹

 三連休初日の土曜日。ゆっくり起きて、先週と同じ中津川の坂本堰の上流に入る。今週は川遊びの家族連れが既に二組入っており、上下に釣り師も数名居る。水は平水だが、まだ垢はイマイチで喰み跡も殆ど無い。午前中一時間ほどやるが反応なし。昼休憩後浅めの瀬を探ると待望の一匹目。八月八日にして今季初の鮎を手にする。囮を野鮎に替えて暫くすると同じ場所でもう一匹。どちらも十五センチくらいの小さめの鮎だが、囮と比べると黄色みが出ている。しかしその後は続かず。十五時まで頑張ったが追加無し。風も出てきたので納竿。
 何とかボウズ続きからは脱出したが。明日以降どうするか悩む。相模の本流は濁りが抜けてないし、中津、道志、丹波あたりは水遊び客との争いになりそうだ。

・八月二日(日) 中津川(坂本) ゼロ

 やっと梅雨明けの土曜日、満を持して出かけたが、クルマの挙動がおかしい。左後輪の空気が抜けており、何やら刺さっている。なじみのタイヤ屋に持ち込んでタイヤを外してもらうと、直径六ミリ、長さ十センチほどの「し」の字型の鉄の棒が刺さっていた。ぎりぎりタイヤ交換にならず修理で済んだが、出鼻をくじかれて竿を出せず。
 梅雨明け二日目の日曜日。相模川は濁りが抜けないので、丹波川、道志川、中津川のどこにしようか迷う。前日良さそうだった中津川の坂本堰の上流に入ってみる。やや濁りが残っているが平水に近いくらいまで水は落ち着いている。ただし垢は全く付いていなくて、喰み跡はほぼ無し。
 釣り師も少なく、一人一瀬でのびのびと探るが、午前中いっぱいやっても全く反応なし。魚ははねているので居るはずだが、垢が無いから追い気も無いのか。昼になると向こう岸から家族連れが入ってきてバシャバシャ泳ぎ始めたので納竿。
 四連続ボウズで、八月まで一匹の鮎も釣れていない。才能ではなく適性が無い気がしてきた。

・七月十二日(日) 道志川(大川原橋) ゼロ

 所用があったり増水続きだったりで、六月二日以来の釣行。前日に道志川、相模川、中津川と偵察し、道志と中津は何とか竿が出せると判断。下見には何度か来ている道志川の大川原橋に入る。増水笹濁りで、全く垢のない白っ川、他に釣り師はいないし,魚の気配もない。だが天気予報が外れて晴天の上、気温も三十度くらいある。やっと夏が来た感じなので,釣れる釣れないは別として、鮎釣りを楽しむ。
 まだ水が多く、岸近くのチャラチャラしたところしか狙えないので、探れるところを一通り探って全く反応がないのを確かめると、後は夏の日差しと山から下りてくる風を浴びて、仕事と長雨でじめついている気分の虫干しである。河原に立っているだけで心地よい。
 囮二匹に一時間づつ頑張ってもらい、二時間ほどで納竿。全く何の気配も無かった。
 相模川本流の濁りは暫く抜けそうにないが、澄むのが早い中津川や道志川は回復傾向だ。しかし、また雨の予報も出ている。早く梅雨が明けてもらいたいと思う。

・六月二日(火) 相模川(六ツ倉) ゼロ

 晴れ、気温二十八度の予報だったので、昨日と同じ六ツ倉に入る。水温は十八度。前後に釣り師はいないので、広い瀬をオトリが自由に泳ぐのに任せて探る。鮎の跳ねる姿や、喰み跡もポツポツ見られるので釣れそうな気がするのだが、何度か怪しい動きがあったものの一匹も掛からず。時々オトリの近くの水面がユラッ(釣りキチ三平で巨大魚が動く描写!)として、潜水艦みたいな鯉が通りかかるので、うっかり引っかけないようにビクビクしながらオトリを泳がせる。
 午前中二時間ほど竿を出したが、狙っていた日が差して水温が上がる事もなく。曇り空のまま納竿。相模川はまだ鮎が育っていないというのが二日間の感触。解禁二日目なのに高田橋下流の瀬に十人も釣り師がいないのだから、状況は推して知るべしだろう。

・六月一日(月) 相模川(六ツ倉) ゼロ

 本ブログは、最近では鮎釣りと年に数回しか行かない演奏会の感想を書くだけの、生存確認のツールと成り果てているが、今年も懲りずに鮎釣りの記録を書く。新聞を取っていないから家にチラシが無いので、チラシの裏に書くべき事をここに書いているわけだ。

 というわけで今年も鮎シーズンが始まった。去年から少し真面目にへら鮒釣りを始めたので、漁協管理のへら釣り場と鮎の両方が楽しめる相模川の年券を四月に買って、鮎の解禁前にへら釣りに何回か行こうと目論んでいたのだが、年券を買った途端に緊急事態宣言が出て、結局一回も使わないまま鮎解禁である。事前に下見しておりた高田橋下流右岸の六ツ倉へら釣り場から入川。ここはクルマを駐められる場所から川までが遠いので空いているだろうと予想したとおり、釣り師は数名しかいない。生憎の雨模様で水温十七度。釣りやすいザラ瀬でおとりをそっと泳がすが何の気配も無し。オトリ屋のオヤジも「魚の姿が見えない。昭和橋辺りまでは幾らかいるが、それより上流は居ない」と言っていたが、そもそも魚の居る気配が無いのだ。ただ、若干喰み跡のある石もあるので、水温が上がれば追うかも知れない。
 雨だし寒いし釣れないしで、午前中釣って納竿。前後でもつれている気配は全くなかった。解禁日に相模川に来たのは五回目だと思うが、一度も釣れたことがない。でも今年は年券を持っているので、元を取るくらいは釣行したい。一万二千円の年券なので、日券千五百円の鮎なら八回、八百円のへら鮒なら十五回で元が取れる。まずは鮎六回へら五回を目標にしたい。再び緊急事態宣言が出ないことを切に願いたい。

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2019年11月11日 (月)

藤岡幸夫のサロメ

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第三二九回定期演奏会

ヴォーン・ウィリアムズ/「富める人とラザロ」の五つのヴァリアント
プロコフィエフ/ピアノ協奏曲第三番ハ長調作品二十六
伊福部昭/舞踊音楽「サロメ」(一九八七)

ピアノ/松田華音
管弦楽/東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
指揮/藤岡幸夫

二〇一九年十一月九日 東京オペラシティコンサートホール

 東京シティ・フィルが伊福部昭の「サロメ」を取り上げるという。伊福部作品の中でも滅多に取り上げられない大作なので、万難を排して聴きに行った。
 この曲の初演にあたる一九八七年五月十五日の新星日響第一〇〇回定期演奏会。山田一雄の追っかけを始めていた高校生の私は、伊福部ではなく前後の曲を目当てにこの演奏会を聴きに行った。この余りに無防備な田舎者の高校生に、伊福部のサロメは情け容赦なく襲いかかり、私はわけもわからずノックアウトされて呆然となったのを覚えている。これが私の伊福部初体験であり、その後ヤマカズ/新星コンビでラウダ・コンチェルタータ、日本狂詩曲を聴くことが出来た。そして今では伊福部を聴きに札幌まで出掛ける伊福部ファンになってしまったのだ。幸いにも初演の模様はCD化され、二十代の頃には本当に数え切れないくらい聴いたものだが、その後生演奏に接する機会はなかった。私にとって、まさに待望久しいサロメなのである。

 藤岡幸夫という指揮者は今まで注目したことはなかったが、今回のサロメは実に素晴らしかった。とにかくよくスコアを読み込んでおり、強弱の付け方やテンポの動かし方など、しっかりと頭の中で組み立てた音楽を、入念な練習で音に組み上げていったのがよく判る。こちらも今までに発売された四種類の録音(山田一雄、金洪才、岩城宏之、広上淳一)をよく聴き込んでレコ勉は十分だ。しかし、その期待以上に藤岡はこの曲をより面白く聴き応えのあるものに仕上げていたと思う。プレトークで話していたとおり、サロメの主題を指定のアルトフルートではなくバスフルートで吹かせたのも、より重苦しい感じが出ており。サロメの心の闇を見事に表現できていたと思う。また、終曲の最後をテンポを煽らずに行ったのも立派。シンフォニア・タプカーラや日本狂詩曲もそうだが、伊福部作品は安易にコーダのテンポを上げると台無しになることが多い。藤岡はさすがによく解っていて素晴らしい。
 久々に聴いたシティ・フィルも大熱演。決して上手いオケではないが、荒削りな音色が伊福部の音楽に合っていたと思う。ヤマカズ新星のCDと同じようなところで金管がひっくり返ったりしていたのはご愛敬だが、藤岡に煽られて乗りに乗った演奏になっていたと思う。

 心の準備は十分にして臨んだサロメだったが、期待以上の素晴らしい演奏に、居ても立ってもいられないような気持ちになり、十代だったあの日に戻ったような錯覚を覚えた。
 あの初演の日、火の鳥、サロメ、ボレロという考えられない高カロリーなプログラムを組んだ新星日響。ヤマカズの配分を考えない棒に煽られた新星日響は、サロメを大熱演で初演したが、休憩を挟まず演奏されたボレロで大事故が起こった。客席がみんな同情する気の毒な事故だったが、後に関係者に聞いたところ、その奏者はそれから程なく退団したらしい。懐かしくも悲しいサロメ初演にまつわるエピソードである。

 藤岡幸夫が伊福部振りという印象は今まで無かったが、このサロメを聴いた限りではシティ・フィルとの相性もいいようなので、伊福部の他の作品も取り上げてほしいものだ。

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2019年11月 4日 (月)

水星交響楽団第六〇回定期演奏会

水星交響楽団第六〇回定期演奏会
一橋大学管弦楽団創立一〇〇周年記念

マーラー/交響曲第八番変ホ長調

独唱/國光ともこ、朴瑛実、高橋美咲(Sop.)、加納悦子、中島郁子(Alt.)、
   松原陸(Ten.)、藪内俊哉(Bar.)、成田眞(Bas.)
合唱/東京オラトリオ研究会、立川コーラスアカデミー、新星合唱団、
   コーラスアカデミーJAPAN、オルフ祝祭合唱団
児童合唱/オーケストラとうたう杜の歌・こども合唱団、四街道少年少女合唱団、
     FCT郡山少年少女合唱団、にしみたか学園三鷹市立井口小学校
合唱指揮/郡司博
管絃楽/水星交響楽団
指揮/齊藤栄一

二〇一九年一一月四日(月祝)すみだトリフォニーホール

 水星交響楽団は一橋大学管弦楽団のOBオーケストラらしい。私は一九九三年にマーラーの交響曲第三番を聴いたことがあるが、コンサートマスターが高校の同級生のK薗クンで驚いた記憶がある。そして、派生団体として国立マーラー楽友協会があり、年一回マーラーの交響曲第九番を演奏しているらしく、これは二〇一二年に聴いた。どちらもアマチュアらしい感動的な演奏だったので好印象を持っている。
 今回は一橋大学管弦楽団の創立百周年記念企画の「国立マーラー音楽祭」の一環で交響曲第八番(以下「千人」)を取り上げるということらしい。詳しい経緯は配布されたプログラム冊子に書いてあるようだが、老眼が進んで本もプログラム冊子も目次くらいしか読む気になれないのだ。

 アマチュアオーケストラなので、ラッパがひっくり返ったりすることは結構ある。しかし、そんな細かいミスが気にならないほど、齊藤の指揮は確固たる音楽を構築している。第九番を聴いたときにも感じたのだが、この指揮者の頭の中にはハッキリと自分の考える演奏の形が出来上がっているのではないか。だからオーケストラや合唱が付いてこられなくても音楽作りがブレない。そうなると聞き手側は、落っこちたりひっくり返ったパートを補完して聴くので、指揮者と聴き手の間に理想のマーラーが完結するのではないかと思う。
 もっとも、オーケストラは慣れているから阿吽の呼吸で引っ張って行けるが、慣れない独唱陣を合わせるのは大変だ。七人の独唱者を舞台前面に並べており、独唱者が指揮者を見にくいので余計に緊張感があった。勢いで行ける第一部は良かったが、独唱が多い第二部が安全運転気味になるのは仕方あるまい。エヴェレストの登山道ではないが、往年のバス歌手の死屍累々たる第二部のバス独唱など、合わせるのに精一杯だった感じだが、とにかくズレずに唱いきったのは立派。
 その独唱陣はレヴェルが高かった。アンサンブルとしてバランスが良く、特にバリトンとバスは声量も十分で聴き応えあり。テノールは表情は素晴らしかったが、もう少し声量が欲しかった。とは言え、神秘の合唱の前の長い独唱を、超スローテンポで唱い切ったのはお見事としか言い様が無い。女声陣は文句なし。アマチュアオーケストラの演奏会でこれだけのレヴェルの高いソリストが集められるというのは、日本の声楽界も人材が豊富なのだと感心する。
 混声合唱は五団体がクレジットされているので寄せ集め感があるが、実際は郡司博が指導する合唱団の集まりだ。これを博友会とか郡司合唱連盟とせず、各団体名を表記するのがいいと思う。あくまでそれぞれの合唱団であるが、共通の指導者の下で一つの音楽を作り上げていく姿勢が素晴らしいと思う。指導者が同じだから一体感があり安心の出来である。特に合唱の実力が試される、間奏曲の後から第二ソプラノの前までや、神秘の合唱の前などは素晴らしい出来だった。児童合唱は健闘していたが、声量が足らずやや埋没気味であったのが残念。
 合唱は三百人弱、児童合唱七十人強。オーケストラの編成は十八型くらいの絃に管楽器はほぼスコア通り。バンダはオルガンの左右でトランペット八、トロンボーン五。ティンパニは二対で両手打ちあり。鐘はチューブラーベルではなく鉄板のようなモノを使用していた。
 齊藤の指揮は時にテンポをぐっと落としたり、内声部を強調したりする部分もあったが、基本的にはキッチリと合わせる棒。オーケストラだけだと自由だが、児童合唱や独唱が入る部分では、非常に判りやすい指揮で、しっかりとまとめていた。この人の指揮に比べたら、七月に聴いたエッシェンバッハなんて子供の指揮真似である。アマオケにはこういう指導者が必要なのだと思う。
 水星交響楽団はマーラーをかなり積極的に取り上げているアマチュアオーケストラなので、かなり期待して臨んだ演奏会だったが、期待通りの素晴らしい演奏だったと思う。アマオケが千人をやることは今や珍しくないが、技術的にレヴェルが高いだけではなく、とても感動的な演奏であったと思う。

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2019年7月22日 (月)

エッシェンバッハの千人

PMFプレミアム・コンサート

マーラー/交響曲第八番変ホ長調

独唱/エリン・ウォール、吉田珠代、安井陽子(Sop.)、藤村実穂子、山下牧子(Alt.)、
   ニコライ・シュコフ清水徹太郎(Ten.)、町英和(Bar.)、ミハイル・ペトレンコ(Bas.)
合唱/PMFプレミアム合唱団、札幌大谷大学芸術学部音楽学科、
   北海道教育大学岩見沢校音楽文化専攻
児童合唱/HBC少年少女合唱団
管絃楽/PMFオーケストラ
指揮/クリストフ・エッシェンバッハ

二〇一九年七月二十一日(日)札幌コンサートホール

 パシフィック・ミュージック・フェスティバル(以下PMF)が三十周年を迎えてマーラーの交響曲第八番(以下千人)を取り上げる。私は国内で演奏される千人は全て聴くと決めているので聴きに行くことにした。
 まず良かったことを書く。PMFオーケストラはプロと学生の混成オケみたいなものだが、一人一人のレヴェルは高い。音がひっくり返ったりするアマチュアらしいミスは無かった。合唱は実態はよく判らないが、地元の大学生も動員して音程もしっかりしていた。人数が多いので舞台の両サイドの客席まで合唱が配置されているので、一階席の中程にいると第一合唱と第二合唱の掛け合いが立体的に聞こえて、マーラーの意図が上手く表現できていたと思う。そして特筆大書したいのはテノールの独唱。プログラム冊子にはニコライ・シュコフとクレジットされているが、漫画家のやくみつるを若くしたような日本人らしい歌手だった。この人のテノールが絶品。何より声質が素晴らしく曲に合っている上に、表現が実に堂に入っている。大昔にFMで聴いた渡邉曉雄/日本フィルの小林一男(一九八一年)に並ぶ歌唱をやっと聴くことができた。あの人は一体誰だったのだろう。通常だとプログラム冊子に挟み込みが入っているものだが、謎のままである。その他の独唱陣は合格点の出来。後述するバス以外は大きなミスも無く、第三ソプラノの澄んだ声質も好ましかった。
 続いてダメだったところ。指揮者。これに尽きる。エッシェンバッハという指揮者は名前は知っているが初めて聴く。PMFの音楽監督を務めているのだから、大変な人格者で若者たちから尊敬されている人なのだろう。しかしダメなものはダメ。曲に対する理解も表現欲も全く感じさせないし、交通整理をする棒の技術も無い。音楽好きの爺さんがレコードに合わせて指揮真似をしているレヴェル。棒と音楽がオンタイムな上に、前拍を打たない指揮なので、下手でもないオケに落っこちが散見される。この棒じゃバスのソロはヤバそうだと思っていると、案の定バスソロは一小節ずれる。全体的に遅めのテンポ設定だがメリハリが無く、私が拡散型と呼んでいる音楽が広がっている音楽作りとはほど遠く、ただ緩い音楽が続いていく。怪我の功名だったのは第一部の最後。バンダが加わるところからテンポを上げて、合唱の上行音階をかき消してしまう指揮者が多いが、遅いテンポでもたもたしていたので合唱が良く聞こえたところのみが指揮者の手柄か。
 私は数十年前音楽関係の仕事をしていて、PMFオーケストラの東京公演に関わったことがある。実行委員会のスタッフは身勝手な連中で、文化祭の高校生レヴェル。段取りも最低で、演奏終了後も楽屋で打ち上げを始めるなどダラダラしていて大幅にホールの使用時間を超過。超過料金を請求されるとホールスタッフを悪罵するという、チンピラみたいな人たちだった。三十年も続いているのだから、今ではそんなスタッフもいないのだろう。
 バーンスタインの遺志を継いで、毎年盛大に開催されているPMFだが、正直なところ私は全く興味が無い。バーンスタインは指揮者としては大好きだが、死ぬ間際にちょっと関わっただけで、残りわずかな時間で学生の指導をするよりは、千人の新録音を残してもらいたかったと思う。そもそも私はフェスティバル的なものが好きでなく、普通の演奏会が好きだ。少なくとも今回のエッシェンバッハの千人よりは、四月のコバケン群響の英雄の方が遙かに感動的な演奏だったと思う。
 まあ、演奏会を口実に札幌まで行って、味噌ラーメンとジンギスカンを食べてきたからそれで良しとしよう。ところであのテノールは誰だったのか?

(追記)
 PMFのウェブサイトを見たところ、テノールは清水徹太郎という人だったようだ。という事は去年びわ湖で唱っていた人だ。びわ湖では席が遠かったせいか、今回ほどいいとは思わなかったのだが……。それにしてもPMFのウェブサイトには代演について一言も触れられていないようだ。結果オーライだったので別に文句は無いのだが、何だか違和感が残る。

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