ヤマカズ十七回忌
今日、二〇〇七年八月十三日は、指揮者山田一雄の十六回目の命日、仏教式だと十七回忌にあたる。(尊敬の念を込めて以下「ヤマカズさん」と呼ばせていただく)
私の音楽体験のごく初期。小学校の音楽鑑賞教室を含めて四回目(多分)の生演奏に接する機会が、地元立川市市民会館での第九だった。当時小学五年生だった私には、小柄で白髪の指揮者が、派手な所作で指揮しているイメージ、具体的にはヴィヴァルディの四季より春でチェンバロを弾いたり立ち上がったりしている姿と、第九の第二楽章第二主題のところで独特な唸り声を上げて指揮している姿が印象に残っている。余談だが、ヤマカズさんの弾き振りは、文字通り最初で最後の体験だった。
その後色々な指揮者を聴いたが、ヤマカズさんの演奏会を特に追いかけるようになったのは新交響楽団との「千人の交響曲」(一九八六年四月)以降だ。それから最後の演奏会となった新交響楽団との「アルルの女」(一九九一年七月)までの音楽体験は、私自身の十五才から二十一才という人格形成期と重なり、かけがえのない音楽体験として色褪せない。
私がヤマカズさんと舞台以外で接したのはたった一回。一九八七年一月十二日に行われた都民芸術フェスティバル(新星日響とのマーラー「巨人」)の終演後。雪の降る東京文化会館の楽屋口で色紙とサインペンを持って待っていた私を含め数名のファンを、ヤマカズさんは楽屋口の中に招き入れて順番にサインをしてくれた。
自分の番が来て緊張している私に、ヤマカズさんはサインに宛名を入れるために「お名前は」と優しく尋ね、私が名前を言うと「どういう字」と続けて尋ねた。極度に緊張して舞い上がっていた私は「ええと、さんずいがあって、なべぶたがあって・・・」などと文字を分解して説明し始めたが、ヤマカズさんはちょっと困った顔をして、「判らないなあ」と首を傾げた。必死だった私はポケットから学生証を取り出して「こういう字です」と示した。それを見たヤマカズさんは、まず色紙の右上に宛名を書き、中央に独特の書体で「山田一雄」と書き、左側に「一九八七年正月」とゆっくり丁寧に書いてくれた。私はその間、何か話したいのだけれど、憧れの人と対峙している緊張感で卒倒しそうな状態で、ただヤマカズさんの手元を黙って見ていることしか出来なかった。
サインを書き終わったヤマカズさんが「はい」と色紙を渡してくれた時、私の口からは極めて平凡な「素晴らしい演奏をありがとうございました」という言葉が、やっとの思いで飛び出した。ヤマカズさんはFMラジオのインタビューで聞いたのと全く同じ調子で「いいえ、ど~いたしまして」と応えてくれた。
あの日書いていただいたサインは、今でも私の宝物である。ちなみに私は有名人のサインを集める趣味はなく。サインをもらったのは山田一雄、伊福部昭、毒蝮三太夫の三人。私が心から尊敬してやまない人だけである。
そんなヤマカズさんは聴衆とオーケストラの楽員から愛されたが、録音に恵まれなかったせいか、没後はその才能を再評価されることもなく今日に至っている。晩年最も関係の深かった新星日本交響楽団が消滅(東京フィルに吸収合併)したことも大きいだろう。
そんな中、嬉しいニュースが二つ。
一つ目は一九八一年録音の、京響を振ったマーラーの「復活」がタワーレコードからCD化される。LPで発売された「京響の復活」(ビクター)と「藤沢の千人」(ソニー)は全てのヤマカズ・ファンがCD化を熱望していたので、タワーレコードの英断に喝采を送りたい。欲を言えば「藤沢の千人」もCD化して欲しいが、こちらはO村T生が唄っているので、この「ヒゲのオタマジャクシ」が死なないとCD化は難しそうだ。ちなみに私は「藤沢の千人」はLPで持っているが、「京響の復活」は東京文化会館の音楽資料室で聴いたことがあるだけだ。
二つめはナクソスが出している「日本作曲家選輯」の山田一雄編が録音済みで、間もなく発売される見通しである。これはナクソスの日本代理店が変更になる為に判ったのだが、今現在「誰が」「何を」録音したのかは判らない。個人的な希望としては「若者のうたへる歌」「日本の俗謡による前奏曲」「交響的木曽」「おほむたから」あたりを日本のオーケストラで録音して欲しいと思う。
今年はヤマカズさんの十七回忌と生誕九十五周年。山田一雄再評価のきっかけになって、遺された録音や映像が発売されることを期待したい。そうしたら私は言うだろう。「ヤマカズの演奏ってのはね、マイクには入らないけど、舞台上に音の大伽藍が現れるんだよ。オバケと一緒でね、実際に接した人間以外には解りようがないんだよ。ははは」と。
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