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2007年9月 6日 (木)

萩野貞樹「旧かなづかひで書く日本語」(幻冬舎新書二〇〇七)

 子供の頃に身につけておけばよかったと思うことが三つある。「ピアノ」「そろばん」「旧仮名遣い」である。
 小学生の時、江戸川乱歩の処女作「二銭銅貨」を読んで、暗号の種明かしの部分で「ゴジヤウダン」(ご冗談)と説明されて、「説明になっていない」と腹立たしく感じた。それが旧仮名遣いだと知らなかったからだ。
 その後、中学生頃から小遣いの節約のため読書は文庫の古本が多く、旧仮名も旧漢字も意識することなく読むようになった。しかし書くことは難しく、旧仮名遣い風の文章をでっち上げる事は出来ても、正しい旧仮名遣いは出来ないのである。

 この本は、旧仮名遣いの要点が比較的簡潔にまとめられている。勿論、一読すればたちどころに旧仮名遣いがスラスラと遣えるようになるわけではないが、旧仮名遣いを知るためには格好だ。
 そして、旧仮名、旧漢字を知るほど新仮名、新漢字のダメさ加減に腹が立ってくる。

 日本が戦争に負けた時、軍国主義を放棄したのは良かったのだが、独自の文化まで一緒にかなぐり捨ててしまったのは大失敗だ。充分な議論もせずに、全く法則性のない漢字の省略と、意味のない仮名遣いの変更。中途半端に改変したことによって矛盾だらけになってしまった。「欧米は二十六文字のアルファベットだけで言葉を表現している。だから日本語もひらがなだけ、いずれはローマ字だけに」などという冗談が、まともな意見として通用してしまったのは、やはり敗戦という精神的打撃による開き直りだったのだろうかと思う。
 当用漢字だけしんにゅうの点を一つ減らしたりする事に何の意味があるのか。
 「大宮の近江屋で青海さんと大海さんが」は旧仮名だと「おほみやのあふみやであをみさんとおほみさんが」(たぶん)と字が類推できるが、音は「おーみやのおーみやでおーみさんとおーみさんが」である。新仮名では「おおみやのおうみやでおうみさんとおおみさんが」となり、まことに中途半端だ。

 こんな中途半端な漢字仮名遣いは全廃して、全て本来の旧仮名旧漢字に戻すべきだと思う。しかし、昭和三十年代ならともかく時間が経ちすぎてしまった。既に小学校の教師で、旧仮名遣いが出来る人は限りなくゼロに近いだろう。私のように新仮名新漢字廃止論者でも旧仮名旧漢字は使いこなせないのだ。興味がない人にとっては「何それ?」というレヴェルの話だろう。
 勿論、言葉というものは時代とともに変化していくものだから、伝統的なものが全て正しいとは思わない。かく言う私だって、日常会話の日本語は酷いものだと思う。しかし、文字が出来た時代は別として、話し言葉と文章は別の世界だと思う。だから文章を書くときは一応気を遣っているつもりだ。ブログの文章だって自分の分身という自覚で書いているから、「もっそい」「めっさ」「ぶっちゃけ」など崩れた話し言葉をそのまま文字に綴るようなみっともない真似をしないよう心がけている。

 黒岩涙香の本を読んだときにも書いたが、せめて文学作品に関してだけは作者が書いたままの文章を読ませて貰えないだろうか。夏目漱石や谷崎潤一郎の文章を出版社が新仮名新漢字に変え、更には勝手に漢字をひらいたりしているのは、作品の改竄に他ならないと思う。
 旧仮名旧漢字じゃ難しくて読めないだろうと言う人がいるかも知れないが、そんなことはない。我々は日常的に常用漢字以外の漢字や旧漢字に接し、言文一致ではない新仮名遣いをほぼ正しく駆使しているのだ。慣れてしまえばどうってことないはずだ。

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