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2008年1月12日 (土)

ゲッツ板谷「ワルボロ」(幻冬舎文庫二〇〇七)

 ゲッツ板谷というライターの存在は、清水義範、西原理恵子の繋がりで、「金角」というペンネームだった頃から知っていた。そして、本来私が嫌いな「不良系」のこのライターに興味を持ったのは、単純に「家が近い」という理由だった。そして、「バカの瞬発力」「直感サバンナ」「板谷バカ三代」「戦力外ポーク」などを、地元ネタで盛り上がるような感覚で読んだ。後に彼の家を特定するのだが、そこは我が家から三百メートルほどで、かつては飼い犬の散歩で毎日のように門前を通っていた日常的な近所であった。

 私は一九七〇年生まれなので、ゲッツ板谷より六歳年下。家は近いけどお互い校区の外れに住んでいるので、小学校も中学校も隣の学校だ。そして、私が中学生だった頃はすでに権力の介入等もあり中学校は静かだった。
 しかし、何年か前の大荒れの話は伝説として語り継がれていた。曰く「昭中(昭島昭和中)と二中(立川二中)は半端じゃない」「拝中(昭島拝島中)が乗り込んできたとき、ミーモ(技術科の教師、本名臼井明)は真っ先に逃げた」「チョン中*(朝鮮中学校)の奴らは集団で襲ってきて割り箸を鼻の穴に突き刺す」「二中のバンは、少年院で済む一四歳未満で一人殺した」「いや殺しはしなかったけど植物人間にした」など、真偽のほどは定かではないが、中学生が元気だった頃の武勇伝であり、大人しくなった中学生に暴力を振るうクズ教師への嘲笑でもあった。

 この小説の舞台は、湘南の海に行く場面以外は全て立川駅南口の限られた地域だ。それがまさに自分が三十余年生きてきた地域だから、情景描写が全て具体的な場所として思い浮かぶので、読んでいてとても他人事とは思えない。私も中学時代に国立の進学塾に通って、国立一中のエミちゃんが好きだったこと。コーちゃんが好きだった山田規久子の家の材木屋は、一年後輩のマサトが好きだった子の家だから、それは規久子(が実在するとして)の妹だったのかなとか。駅、地下道、デパート、学校、公園、河川敷、土手。全て具体的に思い当たるのだが、驚くことにそれらが二十年以上経った現在も、さほど変わることなく存在し続けている。
 ゲッツ板谷が書いているように、立川という町、否、立川南端のこの地域は、駅がオシャレになっても、モノレールが通っても、ここ何十年大して変わってないし、この先も大して変わらないのではないかと思う。

 迂闊にもこの小説が去年映画化されていることを知らずにいた。劇場公開は終わっているようなので、レンタルDVDで観ようかと思うのだが、若干の躊躇がある。少なくとも私にとって、この物語は舞台がほぼ完全に実在の背景で再現出来るのだ。それが、見知らぬ町で撮影されていると、もの凄い違和感を感じるだろう。それは、漫画を読んで自分の頭の中で出来上がっていたキャラクターの声が、声優によってぶち壊されるよりもずっと馴染めない気がする。しかし、映画は観てみたい。ウダウダ言ってはみるものの、そう遠くなく立川駅南口のTSUTAYAで、DVDを借りてくることは予測できている。

 行動範囲が同じというのは親近感が湧くものである。大分以前に太田蘭三という小説家が近所に住んでいることを知り(市は隣、家を特定するには至ってない)、手に入る全作品を読んだ。そして、「死に花」という小説が映画化された。 
 ゲッツさんにはその先、地元の名門「立川地獄」に在籍中の話などを、続編として書いてほしいと願っている。

 *当時私たち立川一中生は、全く差別の意識なく略称として「イッチュー」「ニチュー」「ショーチュー」「ハイチュー」「チョンチュー」と呼んでいたが、「チョンチュー」は誰か悪意ある大人が教えた言葉だったのかもしれない。ここでは当時発音していたままの表記にするが、気分を害す方がいたらお詫びします。

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2008年1月10日 (木)

佐野之彦「N響80年全記録」(文藝春秋二〇〇七)

 N響の歴史を一冊にまとめるのだから、相当な駆け足になることは予想できる。ただ、本書は公式なN響史ではなく読み物だから、面白そうなエピソードのつまみ食いになっていて、一気に読み飛ばすことが可能である。

 N響に対する思いは複雑だ。子供の頃、オーケストラ番組といえば「N響アワー」と「音楽の広場」「題名のない音楽会」だった。「題名のない音楽会」は司会の黛俊郎をはじめとする番組全体の雰囲気が嫌いだった。「音楽の広場」は芥川也寸志が楽しそうに東フィルを指揮する様子が好きだったが、いかにも素人向けという気がした。そこでもっぱら「N響アワー」を観て、この「日本一のオーケストラ」の首席奏者の顔ぶれは大体覚えるくらい好意的になっていった。
 しかし、初めてN響を生で聴いて印象がひっくり返る。定期公演ではなく、都民芸術フェスティバルだったのも不運だった。前から四列目くらいの下手側に座っていた僕とM君を、椅子に浅く腰掛けてだらしない格好の第一ヴァイオリンの四プルト目のオッサンが、指揮者も見ずに弾きながら「ガキが来てるなあ」という感じに客席をジロジロ見ていたのだ。更に演奏が終わると、楽員の方を向いているときはニコニコしているのに、客席を向くと仏頂面になる指揮者(T山U三)にも反感を持った。子供の目にも明らかにやっつけ仕事をしているのが明らかで、「N響なんて二度と聴くもんか」と思った。
 もちろん、東京在住のオーケストラ好きがN響を無視して音楽を堪能するのは無理で、その後何度もN響を聴きに行った。好演にも当たったが、期待外れの方が多かった気がする。

 そんなN響の歴史だが、やはり圧巻は戦中戦後の日響時代と一九六〇年の世界楽旅だろう。世界楽旅の話は岩城宏之に詳しく書いて欲しかったのだが、残念ながら亡くなってしまった。戦中戦後のことも既に証人が少なくなっているから、早く書かないと間に合わないと思う。
 最も印象的なエピソードは、やはり山田和男の「春の祭典」初演。晩年の指揮姿を見て「この棒でハルサイの初演をするのは余程練習をしなければ無理だろう」と思っていたが、実際には過密スケジュールの練習不足でグズグズだったと知り、妙に納得してしまった。私もサントリーホールのP席から、どこをやってるのか判らなくなっているヤマカズさんの姿(石井真木「祇王」)を目の当たりにしている。その時の姿を彷彿とするようなエピソードで、読んでいてニヤリとしてしまった。もっともヤマカズさんも楽員も必死だったのだから笑っては失礼かも知れないが。

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