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2008年9月25日 (木)

コバケン/チェコ・フィルの「新世界」

ドヴォルジャーク/交響曲第九番ホ短調「新世界より」

チェコ・フィルハーモニー管絃楽団
指揮/小林研一郎

二〇〇八年二月三~六日ドヴォルジャークホール(プラハ)
エクストン/OVCL〇〇三三七

 小林研一郎のCDは殆ど持っているのだが、このCDはレコード屋のレジに持っていくとき、かなり気が重かった。オクタヴィア・レコードの価格設定がSACDハイブリッド盤三〇〇〇円、通常CD二八〇〇円から、ゴールドCD三〇〇〇円、ダイレクトカットSACD二万円という、訳のわからない方向に行っているのが一因だ。ハイブリッドSACDがコスト倒れならば仕方がない。普通のCDに戻せばいいと思う。新譜CD三〇〇〇円は安くはないが、LPレコードが二八〇〇円だったことを思えば、高い値段ではないと思う。なのに一昔前に廃れたゴールドCDを、今更凄いもののように喧伝し消費者を煙に巻こうという姿勢が見え隠れする。ダイレクトカットSACDというのがどれほど素晴らしい音なのかは知らないが、二万円という価格設定はプラセボ効果を狙っているとしか考えられない。オクタヴィア・レコードの「どうせ客には良し悪しなんて判りゃしない」と思っている、インチキ商人的体質が感じられてとても不快になるのである。

 コバケンがキャニオン・クラシックスからCDを出し始めた頃、是非スメタナの「モルダウ」を出して欲しいと願っていた。それほど「コバケンのモルダウ」の実演は素晴らしかったのだ。そしてその願いは数年後、チェコ・フィルとの「我が祖国」全曲盤という形で実現する。大いに期待して聴いたが、期待外れでガッカリした。コバケンらしさがすっかり薄れ、「チェコ・フィルのモルダウ」になっていたからだ。更に悪いことに、以降コバケンが「モルダウ」を振ると、日本フィルでも「チェコ・フィルのモルダウ」になってしまい、かつての輝きはすっかり失われてしまった。
 今回の新世界でも悪い予感は的中。今までのコバケンらしさが薄れ、中庸で取り柄のない新世界だ。コバケンの音楽作りは一言で言って「メリハリ」だと思う。速いところは速く、遅いところは遅く、アクセントは鋭く、レガートは甘く、ルバートは大見得を切る。それらを徹底することで「炎のコバケン」と呼ばれる曲作りをしてきた。時にはスコアを無視して突っ走る。「ラコッツィ行進曲」の終結音に絃を重ねたり、マーラーの三番の最後のティンパニの刻みに大太鼓を重ねたりと、管絃楽法の常道を無視して、評論家からは「ハッタリ」と言われても、実演に接する聴衆は結構支持していた。
 しかし、近年では日本フィルには要求することを、チェコ・フィルでは要求しないケースが多い(マーラーの大太鼓など)。伝統ある世界的なオケに対して、腰が引けてしまい、自分の思うように徹底できないのだろうか。だったらチェコ・フィルなんか振るなと言いたい。チェコ・フィルとの関係は、コバケンのキャリアにはプラスだが、音楽的にはマイナスだと思う。
 元々レパートリーの狭い指揮者なので、日本フィルやハンガリー国立響などで発売済みの曲をチェコ・フィルと再録音するケースが増えている。いや、チェコ・フィルに限らず再録音盤は、殆どの場合コバケンらしさが後退していると感じる。指揮者として天才的な閃きとか、軽妙洒脱という芸風でもないので、コバケン流を徹底できなくなったら価値がない。だからコバケンは枯れてはいけないのだ。シェルヘンやバーンスタインのように手の付けられないワガママジジイになってもらいたい。そのためにも、インチキ商人的レコード会社に唆されて、変な海外オケや柄でもないブルックナーを振るのではなく、国内のオケにあちこち客演しつつ、出来たらマーラーの四番、六番、十番、大地の歌を取り上げてくれないだろうか。

 かなりきつい書き方になったが、私はコバケンの音楽が好きなので文句の一つも言わせて欲しいのであり、今後ともファンであることに変わりはない。今後とも演奏会に足を運び、CDを買うつもりだから、ちょっと不出来なCDをきっかけに苦情を言ってみたのである。

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