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2008年11月30日 (日)

宮下誠「カラヤンがクラシックを殺した」(光文社新書二〇〇八)

 今年(二〇〇八年)はカラヤン生誕百年。来年(二〇〇九年)は没後二十年ということで、カラヤンに関する本やCDが続々と発売されている。
 たまたま本屋の店先で見かけ、タイトルの過激さだけに釣られて買ってしまったが、最初の数ページ読んだだけで激しく後悔した。
 厚めの新書で、全二八六ページ。内容を要約すると以下の通り。

「哲学や美術の教養豊かなオレちゃんは、高尚で「世界苦(ヴェルトシュメルツ)」の表現者であるクレンペラーやケーゲルが大好き。低俗なカラヤンと、それを支持する愚かな大衆は大嫌い。」

 これだけである。たったこれだけの事を、延々と繰り返し、比喩に哲学用語を羅列するばかり。二度と読み返す気はないが、「世界苦(ヴェルトシュメルツ)」(カギ括弧で括り、括弧で読み?を付けるのは本文の表現のまま)という言葉が何度繰り返されるのだろう。
 私が音楽に興味を持った頃、図書館にある古い音楽評論の本を読むと、この手の文章に当たる事が多かった。音楽が高級な教養であった時代、音楽評論は教養豊かな評論家が難解な文章で書くのが主流だった。哲学、文学や美術の知識をちりばめて、簡単な事を出来るだけ解り難く書く。それを理解できるのが教養人であり、高尚なクラシック音楽を楽しむオレちゃんは一般大衆とは人種が違うんだ。という選民意識をくすぐって、高価なレコードを買わせるという役割があったのだと思う。
 しかし、宇野功芳以降の音楽評論家は、その演奏の良さ悪さを具体的に指摘し、批評する事が主流になってきた。LP時代には小節数だったのが、CDになってから「トラック○の何分何十秒から」という、具体的な箇所がより解りやすくなった。具体的に指摘すれば、納得出来る場合と出来ない場合が生じ、その評論家と自分との相性も判る。場合によっては「宇野功芳の褒めるCDなんか買わない」という選択も出来るのである。

 本書には具体的にカラヤンのここがダメで、クレンペラーとケーゲルのここがすごいというような事は書いていない。筆者はカラヤンの日本最終公演を、チケットを手に入れながら、前半のモーツァルトはラジオの生中継で、後半のブラームスは最終楽章だけをホールのロビーで(モニタースピーカーの音?)聴いて、初めてカラヤンの音楽に惹かれたと書いている。単にチケットがあるのに臍を曲げて行かないでいたのに、ラジオで聴いたら凄そうで思わず駆けつけたという、シチュエーションが凄かった気にさせているのだろう。最初から普通に客席で聴いていたら、さほどではなかったのではないか。単なる個人的な思い出話である。

 私は実演を聴いて以降のアンチ・カラヤンである。しかし、カラヤンの演奏には首を傾げる事が多いが、彼が音楽界に残した功績が大きい事は否定しない。カラヤンが金と権力を欲望のままに追い求めた事が、結果として音楽の大衆化に大きく貢献した。どうせカラヤンを批判するなら、もっと色々データや証言を集めたスキャンダラスな内容の方が面白いと思う。

 こんな五十年も時代遅れな本を書くのは勝手だが、自費出版で出すべき内容だ。内容に合わない過激なタイトルを付けて、大衆向けの新書として出版する光文社の見識を疑う。自慰行為はこっそりやるものであり、往来でやったら犯罪だ。はっきり言って読むのは時間と金と資源の無駄である。

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