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2009年8月11日 (火)

眞鍋圭子「素顔のカラヤン」(幻冬舎新書二〇〇九)

 作者の名前に既視感を感じたが、四半世紀以上前に私が駆け出しのクラヲタだった頃、当時大人気(で亡くなったばかり)だったカール・ベームの評伝を書いた人だった。

 作者は主に来日時のお世話係をした関係で、カラヤンと家族ぐるみで交流があったという。一九七七年から死までということは、帝王と呼ばれ確固たる地位を築いてから、晩年の一連のゴタゴタまでを間近で見てきたと言うことだろう。
 夫人の回想録(読んでないが)ほどではないにしても、両目がハートマークになっている筆者の姿が思い浮かび、時に微笑ましさを感じる。私はそもそもカラヤンが好きではないので、オイオイそんなに美化しちゃって大丈夫?という感じもするし、確固たる地位を築くまでは相当策略を巡らしてライヴァルを追い落として来たんじゃないのとも思う。
 しかし、作者が身近で見た普段着のカラヤンの様子がとても良く伝わってくるし、終始作者の目線から見たカラヤンという視点がぶれないので、安心して読むことが出来る。そして、読み手なりの解釈をすることが出来て、大変面白く読める本である。芸術論を振りかざすふりをして、内容は「オレはカラヤンが嫌い」というだけの空虚なカラヤン論などとは一線を画している。
 中でも私が面白く読んだのは、一九八四年来日時の振り間違い事件のくだり。当時の記憶では、プログラムが「ドン・ファン」「ディヴェルティメント」「ローマの松」の順で、カラヤンが一曲目と二曲目の順番を間違え、「ドン・ファン」を「ディヴェルティメント」のつもりで振ったのだと思っていた。しかし、振り間違えたのは「ディヴェルティメント」を演奏した後で、順番を間違えたのではなく完全に違う曲(チャイコフスキーの五番)だと思っていたというのは初めて聞いた。

 私がカラヤンを生で聴いたのは、後にも先にもこの一九八四年の来日時のみで、東京公演直前にこの振り間違いニュースを聞いて心配したのを覚えている。確か当時スポーツ新聞の記事になったのを読んだ記憶がある。そしてその数日後普門館の舞台で見たカラヤンは確かにカッコ良かったが、ベルリン・フィルのホルンが派手にひっくり返ったところ以外はレコードで聞いたのと同じだという印象だった。
 そんなリアルタイムの世代には、来日時のエピソードが多いので、自分の思い出と重ねながら読むことの出来る本だと思う。

 以前同じ新書で「カラヤンが云々」というタイトルの羊頭狗肉の極致のような本を読んでしまい随分後悔したが、この本は文章は読みやすいし、内容も面白くて一気に読み通してしまった。前回のように粘着質な作者が本ブログに降臨したりしないことを祈るが、今回は褒めているから大丈夫かな?。

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