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2009年11月 6日 (金)

円楽の浜野矩隨

 噺の面白さに目覚めた小学校高学年の頃、地元の図書館から噺のカセットを借りて、当時流行のWカセットデッキでコピーしては飽きずに聴いていた。司書の好みなのか、アポロンの志ん生音源(病後の高座が多い)と、東芝の「上野鈴本三遊亭圓樂独演会」が揃っていた。まだ「笑点」の司会が三波伸介で、圓樂はNHKの「お好み演芸会」に出ていた頃だと思う。「目黒の秋刀魚」「崇徳院」「汲み立て」「死神」「紺屋高尾」「短命」「鼠穴」「長屋の花見」「万金丹」「中村仲蔵」などが印象に残っているが、中でも一番衝撃を受けたのが「浜野矩隨」だった。落語というのは面白くて笑えるものと思っていた小学生にとって、落語なのに面白くなく、涙を誘う感動的な話というのは衝撃であり、矩隨が死んだ母への思いをかき口説いた後に素に戻っても、洟をすすりながら演じているのを聴いて、泣きながら演じる落語なんてすごいと感動したのだった。

 その後いろいろな噺を聴くようになって、圓樂の音源や録画に接する事が増えたが、より感動することはなかった。こちらの耳が肥えたということもあるのだろうが、圓樂は口跡が悪くなり女の登場人物に色気が無くなったのとともに、言い澱みが多い荒れた高座を聴かされることが多くなった。
 笑点に司会者として復帰し、再びタレントとしての露出が増えたが、博学ぶりをひけらかす司会ぶりを見たり、落語協会分裂騒動のことなどを本で読んだりするうちに、だんだん圓樂に魅力を感じなくなってきた。
 寄席若竹を開場した時は既に「意地張らないで落語協会に戻ればいいのに」と感じ、弟子たちに同情を感じるようになった。若竹には一度くらい行ってみよたいと思っていたが、正月三が日くらいしか圓樂が出ていないので足が向かない。そうこうするうちに予想通り若竹は廃業した。結局、私の噺好きを加速させた噺家だったにもかかわらず、一度も生の高座に接する事はなかった。

 数年前に中古レコード屋で「浜野矩隨」のLPを見つけて買い求めた。久しぶりに聴いてみると大変出来がいい。明らかに客を泣かせようという演出ではあるが、口跡も間も歯切れも申し分ない出来だ。しかし、最後に演者自身が泣き始めると、やはり白けるのは否めない。川柳師が「涙の圓樂腺」と揶揄する気持ちがよくわかる。でも、そこを除けば一九七七年の「浜野矩随」は、その後この噺家が名人と呼ばれるようになってもおかしくない才能を感じさせる。
 圓樂の芸が荒れたのは、やはり落語協会分裂事件が大きな契機になっていると思う。師圓生の意見でタレント活動を縮小し、噺に専念しようとした矢先に寄席に出られなくなった。収入にはならなくとも寄席で噺家が得るものは大きい。常連客不在でドサまわりばかりしていると芸が臭くなるのは当然の成り行きだ。微妙な間とか、気の利いたウィットに反応せず、大声を出すと笑い、泣けば釣られる客ばかり相手にした結果が、後年の圓樂の芸なのだろう。入れ歯が合わず更に滑舌が悪くなったのも追い打ちをかけた。
 落語協会を脱退したのは本人の責ではない(世間で噂されている本当の首謀者は圓樂と談志説を無視して)が、他の弟子が圓生の死後落語協会に戻ったのに、圓樂一門だけ戻らなかったのは圓樂の責任だろう。小さんに頭を下げられず、弟子を道連れにして自前の寄席を建てたのだ。恥を忍んで「ごめんね」と言えれば寄席を建てる必要なんか無かった。弟子のために借金を抱えて寄席を建てたのが美談のように語られるが、そこに至るまでの経緯が抜け落ちている。志ん朝や円蔵(当時円鏡)は弟子のために頭を下げて落語協会に戻ったのだ。
 更には、私も感動した浜野矩隨や、薮入り、子別れ、芝浜(涙の圓樂腺より)あたりの「泣きの圓樂」を発揮できる演目で田舎者に感心される芸風にシフトしたことにより、演者が泣くという演出を日常のものとして、噺好きからは完全に呆れられたことも大きい。演者が泣くことを真に迫った演技と感じるのは、私自身も小学生自分にはすっかり感心させられたが、話芸の本質を理解できていない証であろう。例えば、熊さんが大笑いする場面で演者がゲラゲラ笑ってしまい、次の大家さんの「冗談言っちゃいけない」という台詞になってもまだ笑ってる噺があり得ないのと同様、泣くのもあり得ないのだ。
 厳しい師匠が亡くなり、ドサキンだけを相手に噺をやるようになって、誰も批判してくれなくなったとき、圓樂の噺家としての成長は止まったと言えるのではないか。

 その圓樂が死んで、一門の弟子が残された。噺家としての圓樂はとうの昔に死んでいたと思う。楽太郎の圓樂襲名興行は落語芸術協会の支援で都内各寄席(鈴本を除く)で行われるらしい。それを契機に圓樂一門は芸協に合流すればいいと思う。ついでだから鳳楽に圓生を襲名させればいいだろう。圓生襲名の件については先代圓生の未亡人や圓樂その他が「止め名」にすると合意したはずと言って円窓が怒っているみたいだが、合意した連中に勝手に止め名にする権利があるとも思えない。円窓も正直に「オレが継ぎたい」と言えばいいのに、止め名云々を持ち出すから反感を買うのだ。
 楽太郎が圓樂、鳳楽が圓生になって芸協に合流。談志亡き後は談志一門も芸協に合流。数名はフリーになるかも知れないが、名の通った人はそれでいいだろう。落語ブームと言われる昨今がチャンスなのだから、長年の落語協会一人勝ち体勢ではなく、落協と芸協が均衡した勢力で、互いに切磋琢磨出来る体勢を作れないものだろうか。
 世代交代が進みかつての怨念の当事者が居なくなりつつある今がチャンスだ。圓樂、談志(まだ死んでないが)の死を無駄にせず、落語界全体の繁栄のために、後に続くものが考えて欲しいものである。

 幸いにも圓樂が噺家として最盛期だった頃の鈴本独演会を中心とした一連の録音が最近CD化された。このまま伸びれば間違いなく圓生を越えると思われた、圓樂の一番いい時代の音源が蘇ったことは喜びだ。私は小学生の頃特に好きだった「目黒の秋刀魚」「汲み立て」「万金丹」の三席を聴いて、圓樂を偲びたいと思う。

091109 (おまけ)
私が中一の時に作った素焼きの河童狸(背中にNov.29th,1983の日付入り)と、NHKの追悼特番で浜野を演じる(一九九九年東京落語会の高座)圓樂

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コメント

日記、拝読させていただきました。
圓楽(先代)は晩年テレビで見ると、よく泣いてましたよね。当時は熱演と思ってましたが、噺家当人が泣いては聞く人を泣かせられないとは確かにそうかとも思います。
アタシの記憶違いでなければですけど、あの「浜野矩随」は矩随の母親が自決したパターンと、死ぬ直前で間に合うパターンと二通りありませんでしたかね?
教えていただければ幸いです。
申し訳ございません。

投稿: totakeke302 | 2010年5月 4日 (火) 20時30分

 totakeke302さんコメントありがとうございます。
 手元にあるLPの解説によれば、圓樂本人談で1968年頃紀伊國屋ホールでの初演の際には、間一髪間に合い母子手を取り合って喜ぶ演出だったが、その後名古屋労音の独演会(時期不明)から母が死ぬ筋にしたとあります。本来は母が死ぬ筋だったのを、暗くなるので変えて演じていたそうです。ですから、母が助かるのは初期(鈴本音源は1977年なので遅くともそれ以前)の演出だと思われます。
 なお、最近初めて観た志ん朝師のDVDでは、母が懐剣で喉を突くのではなく縊死する演出で、ぶら下がった母にかき口説く仕草がとても間抜けに見えました。その点で圓樂演出はよく出来ていると思います。

投稿: へべれけ | 2010年5月 5日 (水) 08時05分

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