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2010年1月28日 (木)

金馬の芝浜

「真打ち競演」NHK第一放送二〇一〇年一月二十五日放送
 二〇〇九年十一月二十五日井原市民会館(岡山県)にて収録

「芝浜」四代目三遊亭金馬

 岡山県での公開収録で、大瀬ゆめじ・うたじ、堺すすむ、志らく「短命」、コント山口君と竹田君、ぴろき、金馬「芝浜」という顔ぶれ。前の週に放送された堺すすむが異様に受けていた。

 まず、二〇分程度の持ち時間しかない真打ち競演で「芝浜」をかけることに喫驚。通常すっと本題に入っても三十五から四十五分くらいかかる噺を、二十分に縮めるにはどうするのか。まさか「これから魚金が酒をやめて一所懸命に働きまして、表通りに魚屋の店を構えて大いに繁盛するという、芝浜の上でございました」と切ることは出来ないだろう。
 金馬師は前説を取っ払って、女房が魚金を起こすところから始める。そして一眠りしてから仲間を呼んで飲み食いする場面は省略し、翌朝起こすところで昨晩の飲み食いについて判るようにしていた。なかなか巧く刈り込んでいて感心する。金馬師はもう八十を過ぎていると思うが、滑舌はいいし言い間違えも少なくて大したものだと思う。芝浜を二十分でやることの是非はともかく、このような応用が利くのも凄い。
 ところが、最後の落げを聞いてもっとびっくりしてしまった。「芝浜」の落げは有名な「また夢になるといけねえ」で、落語好きならば誰でも知っている。ところが金馬は「また、金が夢になるといけねえ」と落げていた。

 今まで私は勝手に、魚金(演者によって名前は変わるが)が「夢になって欲しくない」と思っているのは五十両の金ではなく、自分を危ういところから救ってくれた女房と、それによって立ち直ることが出来た今日の自分であると思っていた。志ん朝師の演出だと五十両を見せられて女房のへそくりと勘違いし、かえって「僅かな間に随分とやりゃがったな」と感心している。その様子に五十両という金への執着は感じられず、五十両ばかりの金で今日の自分が揺らぐことのない精神的な余裕を感じられる。しかし、金馬師は落げの直前で魚金に「金と酒で両手に華だ」と言わせて、無邪気に五十両を喜んでいる。そして何より五十両の金が再び夢になることを恐れている。この状態で金を渡して酒を飲ませる女房の判断は正しいのだろうか。まだ暫くは隠して置いた方がいいのではないかと心配になってしまう。
 この違いは「また夢になるといけねえ」の「また」をどう解釈するかの問題だろう。言葉的には「また、手にしたと思った金が夢になる」と解釈出来る。しかし「また、喜ばしい状況が夢となって破れてしまう」ことを恐れる方が人情噺としていいのではないか。
 金馬師がどういう考えで「金が」の一言を加えたのかは判らないが、先代譲りの「素人にも解りやすい語り口」のサービスとして加えたとしたら、ちょっと余計な一言という気がする。

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