才能と努力
二十五年以上前の音源のデジタル化作業を始めた。
最近中学の同級生と飲む機会が何度かあって、同じ吹奏楽部の部員たち何人かと、と四半世紀ぶりに会った。その中で、当時の録音をデジタル化しようではないかという話が出てきたのである。
私が中学生だったのは一九八三~一九八五年。録音メディアはカセットテープで、まれにプライヴェート盤LP、アセテート盤のEP(吹奏楽関係者にはお馴染みのトラヤ製)などがある。幸いにも再生機材がなんとか現役で稼働しているので、パソコンに取り込んでCD化を進めている。
さて、ここからが本題なのだが、中学校吹奏楽部の演奏を改めて聴き直すと気がつくことがある。それは一人一人の才能の差である。特にソロパートを受け持つ首席奏者ではっきりするのだが、上手い下手以外に才能の有る無しが如実に表れているのだ。私の同学年で言えば、フルート、クラリネット、サクソフォンあたりには練習で身に付くのとは違う何かを持っている奴がちらほら見受けられる。その他は大体凡庸である。しかし、その大体凡庸の中に一人だけプロになった(海外で活動しているらしいので風の噂ではあるが、ドイツのオーケストラでホルンを吹いているらしい)奴が居るのだが、彼はこの年トロンボーンから転向したばかりだったので、まだ才能に技術が追いついてなかったのかも知れない。そして、どうしようもなく下手なのがトロンボーンと打楽器に居る。この二人がバランスを無視して馬鹿吹き馬鹿叩きをするので、演奏全体が大変品のない仕上がりとなっている。
何を隠そう、この二馬鹿の一人が私である。打楽器奏者だった私は、同じパートの連中よりも不器用で下手なことは自覚していたのだが、屁理屈と目立ちたい一心で目立つ楽器を取っていた。下手なことをごまかすために練習はしたし、研究熱心だったと思う。楽器の鳴らし方は中学生としてはまあまあである。しかし、聴けば聴くほどリズム感がゼロなのである。しかし、当時の自分は楽器を鳴らすことには相当努力研究を重ねたが、この致命的な才能の無さには無自覚だったような気がする。
幸い私は公立学校以外の音楽教育を受けていなかったので、音楽の道に進むという選択肢は全く考えていなかった。もし、当時ピアノが弾けて、音大に進もうなどと言う了見になっていたらと思うとぞっとする。大学に入ってから才能の無さを自覚して方向転換するのは、なかなか酷なことだと思う。
人間には努力で身に付く能力と、生まれながらに持っている才能(センスと言うべきか)が確かにあると思う。特に芸術の世界というのは、才能のない奴が血の滲む努力をして出来ないことを、鼻歌を歌いながら出来てしまうような天才がいるのだ。そして、本質的にその人にしかできない才能が人を感動させるのだと思う。
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