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2011年1月24日 (月)

AMステレオ終了

 TBSラジオのAMステレオ放送が一月三〇日限りで終了する。最近立て続けに地方局ではAMステレオを終了する動きが続いたのだが、まさかTBSも終了するとは思っていなかった。FMラジオ並みの高音質で聞ける、AMラジオのIPサイマル放送(通称ラジコ)が始まったことが、結果的にはAMステレオ放送に引導を渡したということになるだろう。
 私は子供の頃からラジオ好きだったのだが、高校生の頃はカッコつけてFM横浜やFENを聞くことが多かった。今思えば噴飯もののカッコ悪さである。そして、大学生くらいになると再びAMラジオに戻って、通学の友はカードラジオ。TBSの森本毅郎、大沢悠里、こども電話、若山弦蔵あたりを電車の中で聞く毎日だった。AMステレオ放送が始まった一九九二年三月十五日は丁度そのAM回帰期であり、早速ソニーのSRFーM一〇〇という小型ラジオ(当時はまだカードラジオでAMステレオ対応機は無かったと思う)を購入して、面白がって聞いていた。しかし、確かに野球中継は臨場感があるし、音楽はちゃんとステレオで聞こえるが、私がAMラジオに求めるのは喋りが中心なので、ステレオでないとしても何ら不便は感じないというのが実感だった。
 その後自室の据え置き型チューナーもAMステレオ対応機(ケンウッド/KTー三〇八〇)に替え、大型ループアンテナ(ミズホ通信/UZー八DX)を繋いだが、AMステレオ受信はモノラル受信より雑音が入るので、ずっとモノラル受信のままになっていた。
 ラジオ番組を録音するという作業も、それこそ小学校の時代から続けている。子供の頃は音楽や落語をカセットテープに録り貯めていたが、現在はラジオ番組を丸々録音してMP3形式で保存している。ずっとAMラジオはモノラルで録音していたが、二三年前からはせっかくステレオで放送しているのだからと、AMステレオで録音しておくという方針に切り替えた。昨年暮れにアンプを買い換えた時、カタログからAMステレオ対応機種が殆ど無くなっていることに気付き、既存のチューナーは元気だが、もう一台のAMステレオ対応チューナー(パイオニア/FーD3)を購入した。新しいチューナーはアンプへ、古いチューナーはパソコンに直結し、AMエアチェック態勢の強化を図ったばかりだった。その矢先にAMステレオ終了というのは少しがっかりな気がする。
 しかしながら、よく考えるとこのAMステレオという技術は、全く需要がない技術だったと思う。かつて見えるラジオというものがほんの少し出回り、あっという間に消えたことがあった。文字情報や画像を見たければテレビを見ればいいからである。AMステレオも同じ事、音楽を高音質で聴きたければFMを聞けばいいだけの話だ。大沢悠里や毒蝮三太夫の声をステレオじゃないと聞きたくない人など居ないだろう。宇宙開発みたいなもので、国民の需要からではなく、技術的な興味から生まれた規格なので、二十年近く続いたという事が驚くべき事なのかもしれない。
 ついでに予想すると、現在市場を席巻している3Dテレビ。家庭で立体映像を見られるアレも、すぐにブームは去るだろう。立体映像の技術自体は何十年も前からあって、別に目新しいものではない。普及しなかったのは需要がないからで、今のブームも一過性のものだ。人間の脳は二次元の映像を三次元に補正出来る能力を持っている。映像は二次元で完結、音楽はステレオで完結、会話はモノラルで完結しているから、それ以上の情報はあってもなくても支障ないのだ。
 それにしても、初めてAMステレオで野球中継を聞いた時や、初めて3D映像のアダルトビデオを赤青メガネを掛けて見た時の、期待と拍子抜けの感じ。我ながらマニアックな人間というものは、新技術とか新規格という言葉につくづく弱いものだと実感する。

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2011年1月13日 (木)

コバケンのエロイカ

ベートーヴェン/交響曲第三番変ホ長調作品五五「英雄」

管絃楽/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
指揮/小林研一郎

二〇一〇年四月二十九、三〇日ドヴォルザークホール(プラハ)で収録
エクストン/OVCLー〇〇四〇三

 コバケン(小林研一郎、以下同)がチェコ・フィルを振ってベートーヴェンの交響曲を録音し始めたと聞いたとき、正直なところ殆ど興味が無かった。実演で何度も聴いている第九は、すでに三種のCDと一種のDVDが出ているが、基本的な解釈は同じで新鮮味はない。また、昔何度か実演で聴いた第五は、初めて聴いたときに、「イチ、ニイ、サン、ンダダダダーン」ときっちり予備拍を三つ叩いて冒頭を振ったのを見て、「この指揮者はこの曲の本質を全く理解していない」と二十歳前後の若造だった私は感じた。だからコバケンの運命は、冒頭以外の曲の印象が一つもない。以来、「コバケンは第九以外のベートーヴェンは振れない」と決めつけ、近年よく取り上げている七番も、「のだめブームに乗った日フィル事務局に唆されて、レパートリーでもない曲を」と苦々しく感じていた。
 更に印象が悪かったのは、岩城宏之が始めた大晦日に一日でベートーヴェンの交響曲を全曲上演するという演奏会を引き継いだ事だ。岩城もコバケンも所謂「ベートーヴェン振り」ではない指揮者だから出来る、老人が体力を誇示するゲームであり、ベートーヴェンの音楽を嘲弄するような愚かな企画だ。岩城が考えたのか、プロデューサーの三枝某が考えたのかは知らないが、作曲と演奏という仕事をお達者爺ちゃん自慢にしてしまった罪は大きいと思う。そして、それに後から乗っかったコバケンは、発案者の岩城三枝以上に印象が悪くなった。
 そんな、全く消極的な心境だったが、今までコバケンのCDは全て購入して聴いているので、今更やめるわけにも行かず(この辺を録音プロデューサーの江崎某に見抜かれている気がして余計悔しい)、発売日から大分経ってから購入してみた。
 コバケンの演奏の特徴を簡単にまとめると、緩急のメリハリ、コブシの効いたメロディー、煽るコーダと言うところだろう。しかし、エロイカはベートーヴェンの交響曲の中では全体の構成が良く出来ている曲で、切り貼り的要素が少ないので緩急の変化がつけにくい。早い話が、冒頭の和音を二つ鳴らした段階で、全体の方向性が決まってしまうのである。きっと遅めのテンポで来るだろうと思って聴き始めると予想通りだ。やはりと思って聴いている内に、何だか妙な事になってきた。実に充実した音楽が鳴っており、何やら既視感が感じられるのだ。コバケンのアプローチは、今流行の学術研究に基づくナントカ版の楽譜などとは正反対の、慣用譜による十九世紀的演奏だが、曲想によるテンポの変化が以前の「緩急メリハリ!」という感じのギヤチェンジではなく、大胆ではあるが自然な変化となっている。
 既視感の元ネタはすぐに思い出された。名盤として名高いフルトヴェングラー指揮ヴィーン・フィル(一九五二年スタジオ録音)のエロイカだ。勿論、テンポも表情付けも全然違うのだが、演奏全体の雰囲気が似ているように感じられるのだ。ゆったりした基本テンポと、自然なテンポの変化や表情付け、そして奇を衒うような冒険をしない地に足の付いたアプローチが醸し出す、巨匠風の悠然とした構えがそう感じさせるのだろう。ということは、コバケンは巨匠になってしまったのだろうか。
 聴き通してみて全く期待を裏切られた気分である。今まで私がコバケンの演奏に期待したものとは全く逆方向の演奏だが、実に恰幅が良く立派な演奏だ。考えてみればコバケンも七十才、フルトヴェングラーの死んだ歳(六十八才)を超えているのだから、芸風が変化してくるのも自然な成り行きなのかも知れない。マンネリ感があって、最近ほとんど実演に接してないが、変化を実感するために聴きに行かねばと思う。

 エクストンの録音は相変わらずの近接マイクで指揮台の上で聴いているようだが、生々しくて悪くない。十九世紀風の演奏を最新の録音で聴きたいという要望には合っていると思う。
 残念なのは、以前ほどではないがコバケンの唸り声が相変わらずうるさいこと。今時の技術ならばコバケンに唸り声専用のマイクを付けておいて、位相を逆にして唸り声を打ち消したり出来ないのだろうか。
 さらに残念なのはジャケットの写真。普通に舞台写真を使えばいいのに、なぜあんな百姓が初めてのメキシコ旅行でボラれて撮った記念写真みたいなものを使うのだろうか。少なくともジャケ買いの要素はゼロであろう。

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