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2011年1月13日 (木)

コバケンのエロイカ

ベートーヴェン/交響曲第三番変ホ長調作品五五「英雄」

管絃楽/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
指揮/小林研一郎

二〇一〇年四月二十九、三〇日ドヴォルザークホール(プラハ)で収録
エクストン/OVCLー〇〇四〇三

 コバケン(小林研一郎、以下同)がチェコ・フィルを振ってベートーヴェンの交響曲を録音し始めたと聞いたとき、正直なところ殆ど興味が無かった。実演で何度も聴いている第九は、すでに三種のCDと一種のDVDが出ているが、基本的な解釈は同じで新鮮味はない。また、昔何度か実演で聴いた第五は、初めて聴いたときに、「イチ、ニイ、サン、ンダダダダーン」ときっちり予備拍を三つ叩いて冒頭を振ったのを見て、「この指揮者はこの曲の本質を全く理解していない」と二十歳前後の若造だった私は感じた。だからコバケンの運命は、冒頭以外の曲の印象が一つもない。以来、「コバケンは第九以外のベートーヴェンは振れない」と決めつけ、近年よく取り上げている七番も、「のだめブームに乗った日フィル事務局に唆されて、レパートリーでもない曲を」と苦々しく感じていた。
 更に印象が悪かったのは、岩城宏之が始めた大晦日に一日でベートーヴェンの交響曲を全曲上演するという演奏会を引き継いだ事だ。岩城もコバケンも所謂「ベートーヴェン振り」ではない指揮者だから出来る、老人が体力を誇示するゲームであり、ベートーヴェンの音楽を嘲弄するような愚かな企画だ。岩城が考えたのか、プロデューサーの三枝某が考えたのかは知らないが、作曲と演奏という仕事をお達者爺ちゃん自慢にしてしまった罪は大きいと思う。そして、それに後から乗っかったコバケンは、発案者の岩城三枝以上に印象が悪くなった。
 そんな、全く消極的な心境だったが、今までコバケンのCDは全て購入して聴いているので、今更やめるわけにも行かず(この辺を録音プロデューサーの江崎某に見抜かれている気がして余計悔しい)、発売日から大分経ってから購入してみた。
 コバケンの演奏の特徴を簡単にまとめると、緩急のメリハリ、コブシの効いたメロディー、煽るコーダと言うところだろう。しかし、エロイカはベートーヴェンの交響曲の中では全体の構成が良く出来ている曲で、切り貼り的要素が少ないので緩急の変化がつけにくい。早い話が、冒頭の和音を二つ鳴らした段階で、全体の方向性が決まってしまうのである。きっと遅めのテンポで来るだろうと思って聴き始めると予想通りだ。やはりと思って聴いている内に、何だか妙な事になってきた。実に充実した音楽が鳴っており、何やら既視感が感じられるのだ。コバケンのアプローチは、今流行の学術研究に基づくナントカ版の楽譜などとは正反対の、慣用譜による十九世紀的演奏だが、曲想によるテンポの変化が以前の「緩急メリハリ!」という感じのギヤチェンジではなく、大胆ではあるが自然な変化となっている。
 既視感の元ネタはすぐに思い出された。名盤として名高いフルトヴェングラー指揮ヴィーン・フィル(一九五二年スタジオ録音)のエロイカだ。勿論、テンポも表情付けも全然違うのだが、演奏全体の雰囲気が似ているように感じられるのだ。ゆったりした基本テンポと、自然なテンポの変化や表情付け、そして奇を衒うような冒険をしない地に足の付いたアプローチが醸し出す、巨匠風の悠然とした構えがそう感じさせるのだろう。ということは、コバケンは巨匠になってしまったのだろうか。
 聴き通してみて全く期待を裏切られた気分である。今まで私がコバケンの演奏に期待したものとは全く逆方向の演奏だが、実に恰幅が良く立派な演奏だ。考えてみればコバケンも七十才、フルトヴェングラーの死んだ歳(六十八才)を超えているのだから、芸風が変化してくるのも自然な成り行きなのかも知れない。マンネリ感があって、最近ほとんど実演に接してないが、変化を実感するために聴きに行かねばと思う。

 エクストンの録音は相変わらずの近接マイクで指揮台の上で聴いているようだが、生々しくて悪くない。十九世紀風の演奏を最新の録音で聴きたいという要望には合っていると思う。
 残念なのは、以前ほどではないがコバケンの唸り声が相変わらずうるさいこと。今時の技術ならばコバケンに唸り声専用のマイクを付けておいて、位相を逆にして唸り声を打ち消したり出来ないのだろうか。
 さらに残念なのはジャケットの写真。普通に舞台写真を使えばいいのに、なぜあんな百姓が初めてのメキシコ旅行でボラれて撮った記念写真みたいなものを使うのだろうか。少なくともジャケ買いの要素はゼロであろう。

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