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2011年5月30日 (月)

コバケンの運命

ベートーヴェン/交響曲第二番ニ長調作品三十六
ベートーヴェン/交響曲第五番ハ短調作品六十七

管絃楽/チェコ・フィルハーモニー管絃楽団
指揮/小林研一郎

二〇一〇年四月二十九、三十日(第二番)、十一月十八、十九日(第五番)
芸術家の家ドヴォルザークホール(プラハ)実況録音
エクストン/OVCL〇〇四四〇

 コバケン/チェコ・フィルのベートーヴェンシリーズ第二弾。第一弾の第三番「英雄」は予想外の好演だったが、第五は今までに何度か聴いた実演が全て凡演だったので二匹目のドジョウは期待しない。

 コバケンは巨匠と呼ばれたくなったのだろうか。第二番、第五番とも、一言で言えば十九世紀スタイル。近頃流行の学究的演奏、原典版主義などとは対極にある演奏だ。変な言い訳や理屈をつけずに、自分の信じる伝統的なスタイルを踏襲する姿勢は、かえって潔いと感じる。
 十九世紀生まれの巨匠指揮者たちのアプローチと同様、ゆったり目なテンポを基調に、テンポを楽想によって変化させ、遠慮無く表情付けを行っていく演奏は、第三番同様だ。しかし、第三番に比べて結果的には成功していないと思う。細かな表情付けや極端なバランスの工夫などは殆どせずに、大きな表情付けで勝負する横綱相撲は、第三番のように構成がしっかりした音楽の場合には大きな流れになるが、第五番や第二番だと曲の弱点が露呈されてしまうような気がする。
 このアプローチが行き着くのが第五番で言えばクレンペラーの録音(名演だと思う)やフルトヴェングラーの晩年のスタジオ録音(あまり好きではない)、第二番ならヴァルターのステレオ録音になるのだと思うが、残念ながら全くその域に達しているとは言えず、単なる平凡な演奏と言えるだろう。
 ベートーヴェンの交響曲は多くの指揮者が星の数ほど演奏をして、録音も数え切れないほどある。そこで敢えて新譜として発売するからには、珍奇なこととまでは言わないが、何か他とは違う要素がないと厳しいのではないか。残念だが、コバケンのこの二曲を聴き通して、「ほお!(感心)」とか「えっ!(驚愕)」とか「うーん(疑問)」という感情が一切沸かなかった。丁寧に演奏しているが可もなく不可もない演奏というのが正直な感想だ。
 唯一面白いと感じたのは、第五番の第一楽章展開部のファゴット(三〇三小節)をホルンに変更している点。これは昔ヴァインガルトナーが「当時の自然倍音しか出せなかったホルンでは演奏できないため、やむなくファゴットに吹かせたので、ホルンに戻すべき」と提言して以来、十九世紀生まれの巨匠たちの多くがホルンで演奏していたが、二十一世紀になってホルン改変が聴けるとは思わなかった。ただしこれは「今時それをやるか」という驚きで、コバケンのオリジナルではない。
 また、第五番の第四楽章提示部は繰り返しを実行している。第二番、第三番では第一楽章の提示部も繰り返していないのに、第五番では第一楽章、第四楽章とも繰り返している。何故なのかはコバケン本人に聞いてみないと判らない。私自身は提示部の繰り返しは(第一楽章も)不要だと思っているが、この第四楽章の繰り返しはやってみたい気もする。何故なら、一番括弧がカッコ良く書けているからだ。第一楽章のように単純な繰り返しの場合は迷わないが、一番括弧と二番括弧に分かれている場合は、せっかく書いた一番括弧を音にしてみたいという悩みはある。もっとも、実演でたまたま繰り返してみたのが図らずもCDになったのではなく、CD発売前提の演奏だと思われるので、第四楽章は繰り返すがコバケンの結論なのだろう。近年は馬鹿の一つ覚えみたいに全ての反復を行う指揮者が多い中、適宜繰り返したり省略したりするのは勇気が要るだろうが、私はこれを支持する。

 第二弾にして悪い予感通りになった感があるコバケンのベートーヴェン全集だが、最近よく取り上げている第七番や、どう考えてもコバケン向きの音楽ではない第一、四、八番あたりをどう料理するのか。あまり期待せずに待とうと思う。

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