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2012年2月29日 (水)

かめりあ丸のスラスター故障

かめりあ丸のスラスター故障

 東海汽船のウェブサイトを見ると、二月二十四日付けでこのような文が掲載されていた。

<以下引用>
かめりあ丸 ご乗船のお客様へお知らせ
弊社かめりあ丸について、現在、入出港作業時に使用いたします機器「バウスラスター」(横移動装置)に故障が発生いたしました。
そのため入出港時に波や風の影響を受けやすく、「無条件就航」の予定でも、各島の港湾状況によっては、接岸できない場合もございます。
なお、航海の安全上については、一切の影響はありません。
お客様におかれましては、ご賢察の程、お願い申し上げます。

平成24年 2月
東海汽船株式会社
<以上引用、改行位置変更>

 日本語として変な所が多い文である。「航海の安全に」入出港作業は含まれないのかという疑問が湧く。更に、何を賢察すればいいのかよく判らない。賢察を求めるというのは、はっきり書けないけど事情は判りますよね、という意味合いだと思う。意訳すると「稼ぎ時の椿まつり期間に運休するわけにいかないので、故障したまま運航します。慣れない接岸作業に手間取り、うまく行かなかったり時間がかかったりするので、予期せぬ抜港があると思いますが勘弁してください。沈没したりすることはないから安心してね。」という意味だろうか。通常の接岸作業が出来ないのに、安全に「一切影響はありません」と言い切ってしまうあたりが、過去に八百長は一切無かったと言い切った某協会並に古い体質を感じさせる。

 バウスラスターは船首を横異動させる装置で、接岸、離岸時に船体を旋回(回頭)させる動作をスムーズにする。基本構造は船首の船底に左舷右舷を貫通する穴を開け、その中にスクリューを仕込む。船首を右に回したければ、スクリューで右舷から左舷に水を送るのである。これを装備しない船は、接岸時に錨を降ろしておき、離岸時にはその錨を巻き上げる事により船首を岸壁から離さなければならない。つまり接岸の度に錨を降ろさなければならない。現在でも神新汽船のあぜりあ丸などは普通に行っているが、大型船にはまずバウスラスターが装備されている。
 かめりあ丸も通常はバウスラスターを使って接離岸しているのだが、故障した状態で運行しているのなら面白そうだ。丁度退屈していたところなので、ちょっと乗りに行ってみることにした。

 まずは竹芝桟橋19時45分の着を見物。普段より気持ち大きめに回り込み、しっかり錨を降ろして接岸する様子を確認。時間つなぎに新橋で一杯やってから乗船。昼から飲んでいたので22時20分着の横浜まで耐えられず寝込む。
 翌朝六時、大島岡田港入港。甲板に出ると船尾の繋留索(ホーサー)が桟橋の繋船柱(ボラード、ビット)に掛かっているが、船と桟橋はかなり離れている。暫くもたもたしている感じだったが、船尾側の船員が桟橋に向かって、
「おーい、レッコー」
と大声で叫ぶ。この場合のレッコーとは「放せ」の意である。桟橋側の係員が係留索を外すと、かめりあ丸は港外へ出て行く。何千回も発着しているはずの岡田港で、まさかの接岸失敗である。大島灯台沖で左旋回したかめりあ丸は、再び岡田港へ入港。今度は巧く桟橋に近づいて船首、船尾とも繋留索が掛かる。強い風が船を桟橋から引き離す方向に吹いているのでなかなか近づけないが、時間を掛けてやっと接岸する。離岸は風向きが味方し、繋船索を外すと船体が自然に桟橋から離れる感じで順調。条件付きの利島でも若干苦戦しながら接岸。島影に入る新島では順調に接岸。
 普段なら、接岸時は船員が繋船索の先に付けた先取りロープ(ヒービングライン)の先の錘をカウボーイのようにグルグル回して岸壁に放り投げるが、いつもより遠くまで先取りロープを投げなければならないので、大型フェリーで使うような圧縮空気式のもやい索発射器を使用しているのが珍しい。
 恐らく時間の都合であろうが、上り欠航が決まっている式根島野伏港で予定通り下船するが、港を離れず桟橋の端で離岸の様子を見物する事にする。左舷着けで接岸しているかめりあ丸は、荷役が終わり繋船索を放すと錨を引いて船首を右に振る。錨はあまり沖に打ってあるわけではなく、船首が二十度程度回った所で巻き上がってしまう。そこで強い風が吹き、船体が桟橋に吹き寄せられてしまう。どうするのかハラハラして見ていると、かめりあ丸は前進をかけ、桟橋の防舷材で左舷をこすりながら直進で野伏港を出て行った。やはり、バウスラスターがないとかなり危なっかしい着離岸をしているように感じる。
 自動車に例えればオートマチック車みたいなもので、それに慣れてしまうとマニュアル車を巧く運転出来なくなってしまうようなものだろう。安全な輸送と定時運航の確保のためにも、早くバウスラスターを直した方がいいのではないだろうか。

 上り欠航なので村営連絡船にしきに初乗船して新島へ渡り、上りのかめりあ丸に再び乗船。大島元町港でジェットフォイルに乗り継ぐ。椿まつり期間中の元町港は団体客でごった返しており、乗り継いだ館山寄港便は満席。しかし、千葉からの団体客が多いらしく、館山で三分の一が下船する。館山港は新しい桟橋が竣工して、駅からのアクセスも随分良くなったようだ。これだけ需要があるなら館山寄港を土日のみ通年にしてもいいのではないかとも思った。

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2012年2月 5日 (日)

東京フィル響きの森クラシック・シリーズVol.39

東京フィル響きの森クラシック・シリーズVol.39

二〇一二年二月四日(土)十五時 文京シビックホール

山本直純/「マグマ大使」のテーマ
山本直純/NHK大河ドラマ「武田信玄」テーマ曲
メンデルスゾーン(山本直純変曲)/ヴァイオリン協奏曲「迷混」より
ベートーヴェン(山本直純変曲)/交響曲第四十五番「宿命」より
杉ちゃん&鉄平with東京フィル スペシャル・ステージ
ベートーヴェン/交響曲第五番ハ短調「運命」

杉ちゃん&鉄平(ピアノ/杉浦哲郎、ヴァイオリン/岡田鉄平)
管絃楽/東京フィルハーモニー交響楽団
指揮/広上淳一

 山本直純が亡くなって暫くしてから、「山本直純フォーエヴァー」というCDが発売された。日本フィルが一九六七年から七一年まで毎年開催した「ウィット・コンサート」からの録音で、山本直純の天才ぶりに圧倒されるばかりのCDである。このCDに収録されているベートーヴェンの交響曲をごちゃ混ぜにした「宿命」と、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を好き放題に変曲した「迷混」が生で聴けるというので、勇んで足を運んだ。実は今から七八年前に、同じ広上/東フィルが東京オペラシティで演奏したのだが、拠ん所ない用件があって聴くことが出来なかった。その時以来の念願が叶ったのである。
 会場に入ってプログラム冊子を開いて愕然とする「メンデルスゾーン(山本直純変曲)/ヴァイオリン協奏曲「迷混」より(約三分)」「ベートーヴェン(山本直純変曲)/交響曲第四十五番「宿命」より(約八分)」と記されている。どちらも四十分近い曲なのに、たった数分のつまみ食いしか演奏しないようだ。チラシをちゃんと読まなかったのが悪いのだが、いささか拍子抜けである。
 「マグマ大使」「武田信玄」はどうと言うことはない。生のオーケストラで聴けるのは珍しいが、何れも掌編である。ゲスト&司会の杉ちゃん&鉄平が登場して、「迷混」の第三楽章。メンデルスゾーンとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とその他が交互に現れる。ここだけ聴いても十分面白いが、第一楽章から聴けばもっと面白かったと思う。続いてオーケストラだけで「宿命」。こちらも抜粋をつなぎ合わせた編曲で、ディキシーになる部分などは含まれていない。おもしろ所というより、演奏しやすい所をつまみ食いした感じで、ちょっと不満が残った。
 杉ちゃん&鉄平のスペシャルステージは、お馴染みのネタが楽しい。「アイネ・クライネ三分クッキング」「扁桃腺上のアリア」「美しく青きドナウ川の殺人事件」など、聴いた事があるネタだが、生で聴くのは格別だし、パトライトを仕込んだ演出も大受けだった。最後に東フィルと競演した、和風ハンガリー舞曲第五番は、ヴァイオリンが音量不足でよく聞こえなかったのが残念だが、視覚で追えるので十分楽しむことが出来た。もっとも、全体的に岡田鉄平のヴァイオリンは音量がないので、大ホールで生音だと、ドッと受けた時の聴衆の声や拍手でかき消されてしまうので、やはりライヴハウス規模が丁度いいように感じた。
 休憩後はベートーヴェンの五番。前半が盛り沢山すぎたので、今ひとつ存在感に欠ける。この曲だけを見れば、そこそこにいい演奏だったと思う。しかし、広上も前半の面白プログラムに力を入れたようで、そつなく纏めた感じの指揮だ。前半が面白プログラムなのだから、後半の第五も真面目な演奏会では出来ないような、思い切った演奏をしてくれたらよかったのにと思う。今どき流行らないヴァーグナー風の楽譜改変や、フルトヴェングラーばりの緩急などで遊んでくれたら面白かったのに。広上ならそれが出来ると思うのだが。

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2012年2月 4日 (土)

東京ニューシティ管弦楽団第八〇回定期演奏会

東京ニューシティ管弦楽団第八〇回定期演奏会

二〇一二年二月三日(金)東京オペラシティ

指揮/内藤彰

山田一雄/「おほむたから」作品二〇
マーラー/交響曲第五番嬰ハ短調(新校訂版)

 「おほむたから」を東京ニューシティ管が演奏するというので、東京オペラシティに足を運んだ。
 この曲を聴くのは、初演から五十六年目の再演であった飯守/新響(〇一年)、そして昨年の田中/ニッポニカ(一一年)に続いて三度目になる。当時三十二歳の作曲家山田和男(作曲当時の表記)が、大師匠であるマーラーの第五交響曲を素材にして、マーラーへの憧憬と、時局の閉塞感(一九四四年作)とを綯い交ぜにして描いた、血を吐くような音楽である。前作の交響的木曾が絢爛豪華な作風だったのに対し、この曲には外面的な外連は皆無である。しかし、平和ボケの我々が聴くと、苦悩の告白だけでなく、マーラーのパロディと受け取ることが出来るので、ただ深刻になるだけではなく楽しむことが出来る。
 この曲をマーラーの第五の前に置く配置は素晴らしい。順序は逆だが、巨人の前に若人の歌を演奏するように、関連する曲を並べて、その関係性を楽しむことが出来ると思う。指揮者の皆さんは是非、マラ五の前プロに悩んだら、「おほむたから」を演奏して欲しい。

 内藤彰という指揮者は、今回初めて聴く。以前からこの東京ニューシティ管弦楽団を組織し育成してきた指揮者として、そして近年は「改訂版初演」と「ノン・ヴィブラート奏法」の権威として知られているようだ。開演に先立ち本人から解説があったが、ヴィブラート奏法はマーラーが死んだ頃から流行りだしたので、マーラーが活躍した時代はヴィブラートを掛けないのが普通だったそうだ。だけど今回の演奏は、ヴィブラートを掛ける所もあると言う。時代考証として正しいかどうかは知らないが、方針ははっきりして欲しい。普通にヴィブラートを掛けて演奏するのか、それとも完全ノン・ヴィブラートで演奏するのか。
 実際に演奏が始まると、実際は奏者によってバラバラ。コンサートミストレスや、三プルトの裏の人は普通にヴィブラート掛けている。それ以外の奏者も、余裕あるフレーズではヴィブラートを掛けずに弾いているが、ゴリゴリ弾く場面になると習性でヴィブラートを掛けている。ご託を並べたわりには徹底されていないのである。そこまで確認した途端に興味が無くなってしまい、それ以降の演奏はただただ退屈であった。
 内藤彰という指揮者は、理論派で、慣用版の楽譜の悪しき慣習を正すことに使命を感じているようだが、演奏は全く面白くない。マーラーを聴いて感じる、分裂気質的なまとまりの無さを一つ一つ確かめるような気がするのである。完全な音楽など存在しないわけだから、演奏する側が作曲者と同じ気持ちで再創造しなければ音楽は楽しめない。内藤の音楽作りは、楽譜を冷静に分析して音にしている感じで、恋人の顔を拡大鏡でくまなく調べるような愚行であると感じる。
 また、開演前に講釈をたれるのも如何なものだろうか。滅多に演奏されない「おほむたから」の解説はいいが、ノン・ヴィブラートの解説は、素人には意味不明だし、私のような半可通には「言うほど出来てねえじゃねえか!」と因縁を付ける口実になると思う。ついでに言えば、「おほむたから」も半分以上の奏者がノン・ヴィブラートで弾いていた。これは噴飯ものである。内藤彰が間違っているのは、自分は演奏者としてノン・ヴィブラート奏法で演奏したいのだと言わずに、この曲はノン・ヴィブラート奏法で演奏するのが正しいと主張する所だ。以前現代音楽の作曲家を批判したが、彼等と同様、聴衆に聴かせるための音楽ではなく、自分の説の検証をしているだけで、演奏会でなく発表会の感覚だと思う。
 内藤彰の余計な主張を聞かされなければ、ヴィブラートを控えめにした面白くない演奏というだけの感想なのだが、要らぬ講釈のおかげで、偉そうなことを言うわりには実践出来てない詐欺師的演奏という悪印象が残った。

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