東京ニューシティ管弦楽団第八〇回定期演奏会
東京ニューシティ管弦楽団第八〇回定期演奏会
二〇一二年二月三日(金)東京オペラシティ
指揮/内藤彰
山田一雄/「おほむたから」作品二〇
マーラー/交響曲第五番嬰ハ短調(新校訂版)
「おほむたから」を東京ニューシティ管が演奏するというので、東京オペラシティに足を運んだ。
この曲を聴くのは、初演から五十六年目の再演であった飯守/新響(〇一年)、そして昨年の田中/ニッポニカ(一一年)に続いて三度目になる。当時三十二歳の作曲家山田和男(作曲当時の表記)が、大師匠であるマーラーの第五交響曲を素材にして、マーラーへの憧憬と、時局の閉塞感(一九四四年作)とを綯い交ぜにして描いた、血を吐くような音楽である。前作の交響的木曾が絢爛豪華な作風だったのに対し、この曲には外面的な外連は皆無である。しかし、平和ボケの我々が聴くと、苦悩の告白だけでなく、マーラーのパロディと受け取ることが出来るので、ただ深刻になるだけではなく楽しむことが出来る。
この曲をマーラーの第五の前に置く配置は素晴らしい。順序は逆だが、巨人の前に若人の歌を演奏するように、関連する曲を並べて、その関係性を楽しむことが出来ると思う。指揮者の皆さんは是非、マラ五の前プロに悩んだら、「おほむたから」を演奏して欲しい。
内藤彰という指揮者は、今回初めて聴く。以前からこの東京ニューシティ管弦楽団を組織し育成してきた指揮者として、そして近年は「改訂版初演」と「ノン・ヴィブラート奏法」の権威として知られているようだ。開演に先立ち本人から解説があったが、ヴィブラート奏法はマーラーが死んだ頃から流行りだしたので、マーラーが活躍した時代はヴィブラートを掛けないのが普通だったそうだ。だけど今回の演奏は、ヴィブラートを掛ける所もあると言う。時代考証として正しいかどうかは知らないが、方針ははっきりして欲しい。普通にヴィブラートを掛けて演奏するのか、それとも完全ノン・ヴィブラートで演奏するのか。
実際に演奏が始まると、実際は奏者によってバラバラ。コンサートミストレスや、三プルトの裏の人は普通にヴィブラート掛けている。それ以外の奏者も、余裕あるフレーズではヴィブラートを掛けずに弾いているが、ゴリゴリ弾く場面になると習性でヴィブラートを掛けている。ご託を並べたわりには徹底されていないのである。そこまで確認した途端に興味が無くなってしまい、それ以降の演奏はただただ退屈であった。
内藤彰という指揮者は、理論派で、慣用版の楽譜の悪しき慣習を正すことに使命を感じているようだが、演奏は全く面白くない。マーラーを聴いて感じる、分裂気質的なまとまりの無さを一つ一つ確かめるような気がするのである。完全な音楽など存在しないわけだから、演奏する側が作曲者と同じ気持ちで再創造しなければ音楽は楽しめない。内藤の音楽作りは、楽譜を冷静に分析して音にしている感じで、恋人の顔を拡大鏡でくまなく調べるような愚行であると感じる。
また、開演前に講釈をたれるのも如何なものだろうか。滅多に演奏されない「おほむたから」の解説はいいが、ノン・ヴィブラートの解説は、素人には意味不明だし、私のような半可通には「言うほど出来てねえじゃねえか!」と因縁を付ける口実になると思う。ついでに言えば、「おほむたから」も半分以上の奏者がノン・ヴィブラートで弾いていた。これは噴飯ものである。内藤彰が間違っているのは、自分は演奏者としてノン・ヴィブラート奏法で演奏したいのだと言わずに、この曲はノン・ヴィブラート奏法で演奏するのが正しいと主張する所だ。以前現代音楽の作曲家を批判したが、彼等と同様、聴衆に聴かせるための音楽ではなく、自分の説の検証をしているだけで、演奏会でなく発表会の感覚だと思う。
内藤彰の余計な主張を聞かされなければ、ヴィブラートを控えめにした面白くない演奏というだけの感想なのだが、要らぬ講釈のおかげで、偉そうなことを言うわりには実践出来てない詐欺師的演奏という悪印象が残った。
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