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2012年3月28日 (水)

松崎釣具店の思い出

 私は東京郊外の多摩川の近くで生まれ育ったので、幼い頃から川釣りをして育った。
 一番最初に釣りを教えてくれたのは父だった。父は釣りが趣味ではないのだが、同じく多摩川近くで生まれ育ったので、川沿いの子供なら誰でも知っているハヤ(ウグイ)やヤマベ(オイカワ)の按摩釣りと、小物のウキ釣りを教えてくれた。
 そして次に、現在も釣りの師匠である伯父貴に色々な釣りを教わり、段々面白くなってくる。同級生の釣り仲間も何人か出来たところで、小学四年生からアニメ「釣りキチ三平」の放映が始まる。釣り仲間の久保田君や郷田君たちとあちこちに釣りに出かけ、最初は玉ウキでクチボソ(モツゴ)などを釣っていたのが、子供向けの釣り入門書を読んだり、釣りキチ三平を見たりして、色々な釣りに手を出すようになった。吸い込み仕掛けの鯉、鮒釣り、用水路での小物釣りなど、手近で出来る釣りのレパートリーは増えていった。中でも一番得意だったのは中央線鉄橋下でのヤマベ釣り。特製の六尺(一、八メートル)竿にドングリ型ウキの仕掛けで、上下線の橋脚の間の深み(結構流れが強い)で、放課後平均二〇~三〇匹くらいというなかなかの腕だった。もっとも、当時の多摩川は今よりずっと水質が悪かったから、釣った魚は少数を飼育する以外は放流するしかなかった。小学生のやることだから、魚を触らないようにいたわって放流するなんて行為ではなく、小さなズックビクに貯めておいて、最後に水を抜いてビチビチ跳ねているのを眺めて悦に入ってから放すという乱暴なものではあったが。
 そして、遂には小学生のくせにヘラブナ釣りに手を出し、近所にあった釣り堀に通うまでになった。小学生が一から自力でやるヘラブナ釣りだから、かけがえのない安物の道具一式ではあったが、何とか坊主では帰らないくらいの技量には達していたと記憶している。

 そんな釣りキチ少年だった頃、毎日のように通ったのが、自宅から一五〇メートルほどのところにあった松崎釣具店だった。道路に面した民家の一間、六畳くらいが店舗で、奥の座敷は自宅という造りの店だった。ここで一〇メートル巻三〇円のナイロン糸や、一袋三〇円のサシ(養殖蛆虫)、小口油肥という会社名だったマルキューの練り餌、六本入り五〇円のがまかつの糸つき針などを日常的に買っていた。また、誕生日やクリスマスになると、祖母を連れて行って鯉釣り用の投げ竿とリール(まだ仕舞ってある)など値の張る物を買ってもらうために、日常的に商品の偵察を怠らなかった。
 この釣具屋の店主は中年のオジサンで、どうやら独り者らしい雰囲気だった。大したものを買うでもなく毎日のように来る近所のガキを嫌がらず、面白がって相談に乗ってくれた。具体的な釣り方の助言から昔の釣りの話など、色々話してくれたが、釣りキチ三平で見たヤマベのタタキ釣り(釣りキチ三平ではジンケンのゴロ寝釣り)の話などが面白かった。とりもちを使ってサナギ玉という針を作り、それで水面を叩くようにすると面白いように釣れた話などを聞いた。また、夏休みに名栗川にバーベキューに行くことになり、「尺バヤ(三〇センチ以上のハヤ)を釣ってやる」と意気込んでいる私に、「名栗川で尺バヤが釣れたら首をやる」と笑って、小さな川では魚も大きくならないことを説明してくれた。
 またあるときは、公園の溜め池で蛙取りをしていて偶然にも二尺の大鯰を捕獲してしまった。仲間同士で溜め池で網で捕ったのでは格好が付かないから、多摩川で釣ったことにしようと結託した。魚拓を取って(鯰は飼育を試みたが、大きすぎて飼いきれず死んだと記憶している)、箔をつけるために現認者の書き込みを加えようと、魚拓を釣具屋に持ち込んだ。オジサンは事情を聞くと渋い顔をして、「現認者っていうのは現物を確認したって事だから、魚拓だけ持ってきても現認出来ないんだぞ」と苦言を呈し、でも「まあいいか」と苦笑いして、魚拓の隅に現認者と書き込んで、店名のゴム印を捺してくれた。この捏造魚拓のおかげで、学校で私は釣り名人という評価をされるようになったが、網捕りの現場にいた真実を知る仲間には頭が上がらなくなった。
 また、このオジサンは傷物の売り物をよくタダでくれた。練り餌の袋の破れたのはちょいちょい貰った気がする。よく覚えているのはヘラブナ釣り用のフラシ(網ビク)と竿掛け。どちらも小学生の小遣いでは手が出ないものだ。これらを貰ったことがヘラブナ釣りにまで手を出す布石になったように思う。オレンジ色のフラシは、一部ほつれていた網の部分を赤い糸で補修して、実際の使用には支障なくしてもらった。竿掛けは伸縮式の長さを固定するネジの部分が割れてしまったのを、ネジ部分に金鋸でぐるっと溝をつけ、そこに太い補修糸を巻き、接着剤で固めて補修してくれた。前にいた客が強く締めすぎて割れてしまったらしく、オジサンは「何て馬鹿力なんだ。飯食い過ぎてるんじゃないか?」と愚痴を言いながら直してくれた。この「飯食い過ぎてるんじゃないか?」のフレーズは、今だに時々使わせていただいている。
 そして、釣具屋らしく器用な人で、私がヤマベ釣り用に六尺の竿が欲しいと頼むと、店頭にあった九尺(二、七メートル)のヘラ竿を改良して六尺の竿を作ってくれた。いつも店先のガラスケースの上に置いてある切り出しナイフで、三本継ぎの九尺竿の握り手を切り落とし、二番手の元の部分に糸を巻いたり切り落とした部分をうまく加工したりして繋ぎ、段差になった部分は糸を巻いた上から黒カシュー(油性の漆塗料)で固めるという凝った作りだった。図らずも自分しか持ってない竿を手に入れた私は大喜びして、随分大事に使ったのを覚えている。また、針に糸を結ぶ方法なども実際に目の前で実演してくれた。その手際は見事で感心していると、「がまかつ(釣り針メーカー)の内職のオバサンたちはこんなもんじゃなく、もの凄い早業で巻く(針に糸を結ぶ)んだぞ。一本巻いて五十銭貰えるらしいけど」などと教えてくれた。私は今でもこのときに教わった方法で、バラ針に糸を結んでいる。
 私はいつもオジサンに、いつか実際にオジサンが得意な渓流釣りを教えてくれと頼んでいたが、オジサンの答えは「中学生になったら連れて行ってやる」というものだった。曰く、「今の体格では岩場などを歩く時に付いてこられない。脚のコンパスが大人並みになれば、足手まといにならないから連れて行ってやる」という事だった。私は早く中学生になって、オジサンに釣りに連れて行ってもらおうと、無邪気に考えていた。

 残念ながら、結局松崎釣具店のオジサンに、渓流釣りに連れて行ってもらうことは叶わなかった。中学に入学した私は吹奏楽部に入部。当たり前だが部活が楽しくなってしまい、釣りのことなどすっかり忘却の彼方だった。毎日朝夕松崎釣具店の前を通って中学校に通っていたのだが、オジサンとの約束も、たまに「そんなことがあったな」くらいに思い出す程度になってしまっていた。
 そして中学何年の時だったか忘れたが、ある日松崎釣具店の店内に葬式の飾り付けがされているのに遭遇する。その時の記憶が曖昧で、その場で誰かに聞いたのか、家に帰って家族に聞いたのか定かでないが、亡くなったのはあのオジサンだという。確か、急に亡くなったらしく、まだ四十代で独身なのにと誰かが言っていた。オジサンの葬式に参列したのかも記憶がない。焼香だけしたような気もするが、恐らく行けなかったのではなかったか。オジサンが亡くなったと聞いて、中学生の私には、近頃足が遠のいていたことが急に後ろめたく感じられて、今更顔向けが出来ないような気持ちになってしまったのだ。思春期の不安定な心では、そんな気持ちを抑えて、オバサン(店主の母親、時々店番をしていた)に悔やみを言うなんて、到底出来ることではなかった。
 それから暫くの間、松崎釣具店はオバサンが店番をしていたようだが、いつの間にか店仕舞いしてしまった。もっとも、オジサンが元気だったとしても、奥多摩バイパス沿いに上州屋が出来てしまい、地元の釣具屋は殆ど廃業してしまったから、松崎釣具店もいずれ廃業していたことだろう。
 今でも松崎釣具店の建物はそのまま残っているが、普通の民家になっており店舗の面影はない。時々前を通ると、私の釣り好きの原点は、あのオジサンが育ててくれたのだと感慨深い気持ちになったりする。

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