橘丸三代
橘丸(三代目)
貨客船 五七〇〇総噸(東海汽船)
全長一一八m、全幅一七m、速力一九ノット
二〇一六年 三菱重工下関造船所で建造予定
主に東京~三宅島~八丈島航路に就航予定
東海汽船が再来年に就航させる新造船の名称が「橘丸」になると公式の新船ブログで発表された。橘丸といえば、噺家では三遊亭圓朝に当たるような大名跡である。かつて東京湾の女王と呼ばれ、東海汽船、いや日本内航客船の歴史の中でも最も輝かしい船名が復活するということは、船舶ファンとしては本当に嬉しい。
念願だった新船の建造が決まり、命名とカラーリングを東海汽船名誉船長である柳原良平氏に一任すると聞いた時、正直なところかなり嫌な予感がした。二〇〇〇年に高速船を購入した時、船名は鳥名シリーズの「シーホーク」「シーガル」の流れを引き継いで「アルバトロス」と名付けられたが、カラーリングはおもちゃ箱をひっくり返したようなパステルカラーで、操舵室の上に目玉が描いてあるという、遊園地の面白乗り物みたいなものだった。これをデザインしたのが柳原氏だった。そして、二〇〇二年に三隻のジェットフォイルを購入した時、東海汽船は柳原氏に命名とカラーリングを依頼した。これが現在の「セブンアイランド愛、夢、虹」の三姉妹である。伊豆七島という呼び方は定着しているので、これを否定する気はないが、直訳してセブンアイランド(アイランズじゃないのか?)というのはセンスのかけらもないし、色も派手派手なパステルカラー。漫画家に頼んだのだから漫画みたいな色になるのは仕方ないのかと諦めの境地だった。
しかし今度は、中古購入のアルバトロスやジェットフォイルと違って、自社発注の新造船だ。伝統的な花の名前と落ち着いたカラーにして欲しい。色見本みたいな船体で、「セブンアイランド絆」なんて船名だったら死にたくなるが、東日本フェリーの悪夢(*)と同じようなことになるのは杞憂ではないと、本気で心配していたのである。
(*)親会社が変わった東日本フェリーが、インキャット社(豪)の大型高速船(ウェーブピアーサー)を二隻立て続けに新造し、七歳の女の子に船体デザインを任せ、その子の愛称を船名にした。船体いっぱいに子供の落書きをペイントされたナッチャンという名前の船が二隻就航するという、普通の客や船舶ファンに恥辱プレイを強いるような状況になった結果、大方の予想通りごく短期で撤退を余儀なくされ、会社自体も倒産に追い込まれた事件。
ところが、東海汽船から発表されたのは、まさかの橘丸復活だ。個人的には盆と正月とカーニヴァルが一緒に来たような目出度さで、虎屋で紅白饅頭を誂えて、隣近所に配って回りたいくらい嬉しい。いやその前に、理由もなく信用していなかった柳原良平氏にお詫びとお礼に伺いたい。高速船隊は派手でいいが、在来船は伝統的な船名とカラーリングという、船マニアの大先達である氏の深い見識に、心から感謝したい。柳原先生本当に有難う。もう生涯ウィスキーはトリスしか飲まないことにします。
実を言えば、滅多に書き込むことのない某掲示板で、私は三月にこのような書き込みをしている。
295 名前: NASAしさん [sage] 投稿日: 2012/03/03(土) 22:52:08.75
>>294
全く同感。在来船を妙なデザインにして違和感があった80年代の教訓を活かして、
従来通りのデザインと、奇を衒わない船名にして欲しい。個人的には平仮名で
違和感のない名前(はまゆう丸、さつき丸)又は思い切って橘丸復活希望。(以下略)
この時の意識としては、東海汽船にとって橘丸というのは特別な名前で永久欠番扱いだろうから復活はあり得ないと勝手に思っていたので、次善の案を書き込んだのだった。そんな特別な船名を復活させるとは、今回の新造船に対する期待の大きさが感じられる。
話はそれるが、ここに書いた一九八〇年代の妙なデザインというのは、七〇年代の上部はクリーム色で下部は紺色というデザインから九〇年代の全体が白で喫水線に近い部分だけ水色のデザインに移行するまでに、数通りのデザインを試行した時期のことで、映画「男はつらいよ柴又より愛をこめて」(一九八五年)で見ることが出来る。
新船ブログでは同時に大まかなデザインも発表されている。船の形は同じ三菱重工製のさるびあ丸と似ているが、船尾や煙突の形状は大きく異なる。そしてカラーリングだが、黄土色とオリーブ色の二色で、黄土色の地色に、船首の喫水線から船尾の船縁を結ぶ斜めの直線と船縁に挟まれた三角形の部分にオリーブ色を配している。これは恐らく、船縁から下をオリーブ色にすると、シア(船首と船尾が中央より上に湾曲し、全体が反り返るような船独特の形状)の無い設計故にのっぺりとした印象になるのを防ぐ狙いではないだろうか。現役のかめりあ丸、さるびあ丸の白地に水色の配色に比べると中間色になって、地味な色で思い切ったデザインにした感じがするが、実際現物を見るとどんな印象だろうか。
それよりも気になるのが煙突である。船尾寄りに大型のマックファンネル(帆柱と一体型の煙突)が配置されているのだが、この煙突もオリーブ色の三角形にペイントされているのだ。船首も煙突もオリーブ色では東海汽船のファンネルマーク(社章)をどこに掲げるのだろうか。現行の船首のマークは、一九六〇年代後半に細いマックファンネルの船(さくら丸、はまゆう丸、かとれあ丸)が誕生し、ファンネルマークを付けられなかった時代の産物なので拘らなくていいと思うが、立派な煙突にファンネルマークがないのは如何なものか。これでは黄土色とオリーブ色の三角の組み合わせが社章になってしまう。ノルウェイの国旗を中央に寄せたみたいな東海汽船の社章を堂々と掲げて欲しいものだ。
二〇〇二年のジェットフォイル導入以来、久々の伊豆諸島航路の新船だ。デザインには若干疑問が残るものの、実物を見れば印象も変わるかも知れない。とにかく早く実物が見てみたくて落ち着かない。
(おまけ)
ついでなので先代、先々代の橘丸について調べてみた。
橘丸(初代)
貨客船(後に客船) 三九二総噸(東京灣汽船)
全長四一、二m、全幅七、三m、速力一一ノット
一九二三年 大阪鐵工所(現日立造船)櫻島工場で建造
一九二八年 客船化改造、主に東京~大島~熱海、~下田航路に就航
一九三四年 大島元町港で座礁、後に復旧
一九三四年 鹿児島商船に売却、その後種子島丸と改名、一九六三年まで就航
橘丸(二代目)
客船 一七八〇総噸(東京灣汽船~東海汽船)
全長七六m、全幅一二、二m、速力一五、五ノット
一九三五年 三菱重工神戸造船所で建造
主に東京~大島~下田航路に就航
一九三七年 海軍に徴傭、特設病院船となる
一九三八年 陽湖にて中国機の空襲による至近弾を受け座礁横転するも引き揚げ復旧
一九三九年 解傭、日清汽船が傭船、南京方面に就航、東京湾汽船に復帰
一九四三年 陸軍に徴傭、輸送船となる、後に改造、病院船となる
一九四五年 偽装病院船として米軍に拿捕される(橘丸事件)
一九四五年 米軍から返還後、復員船として活動
一九五〇年 東海汽船に返還、主に東京~大島航路に就航
一九七三年 さるびあ丸就航に伴い除籍、久三商店にて解体廃船
なお、初代は一九二九年の桐丸(五三一噸)就航までの六年間、二代目は一九六九年のかとれあ丸(二二一〇噸)就航までの三十四年間、東海汽船(東京灣汽船)の旗艦を務めた名船であり、特に二代目は流線型の美しい船形も相まって「東京湾の女王」と呼ばれた。二代目橘丸はよく知られているが、初代が長く鹿児島で活躍したのは知らなかった。一九六〇年代まで現役だったということは、一九五九年に照国郵船から東海汽船に譲渡された第一照国丸(椿丸)と並んで活躍していたということだろう。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
アルバトロス乗ってみたかったな。
東京湾各地を結ぶ航路なんか有ってもいいんじゃないかな。
投稿: あ | 2013年1月12日 (土) 02時04分