圓生百席
六代目 三遊亭圓生(一九〇〇~一九七九)
「人情噺集成」 一九七三~一九七四年スタジオ録音(ソニー・ミュージック)
「圓生百席」 一九七四~一九七七年スタジオ録音(ソニー・ミュージック)
(参考)
京須偕充「圓生の録音室」(一九八七青蛙房、一九九九文春文庫、二〇〇七ちくま文庫)
圓生百席がCD化されたのと「圓生の録音室」を読んだのと、どちらが先だったかは記憶がはっきりしないが、ソニーが人情噺集成として録音された演題も含め、CD二枚組五十八巻の「圓生百席」として発売した時、すぐに人情噺集成分の十三巻を購入した。牡丹灯籠、真景累ヶ淵をはじめとする人情噺は、笑いは少ないものの、物語として素晴らしい。
「圓生の録音室」を読むと、圓生の録音作業に臨む姿勢が興味深い。録音したくて内心うずうずしているのだが、その了見を読まれて叩かれるのを警戒し、乗り気なようなそうでないような態度をとるなぞは、頑固ジジイそのもので微笑ましくもある。
やっと最近になって本来の「圓生百席」分まで聴き終えたが、やはり落とし噺になるとスタジオ録音は雰囲気に欠ける。藝をちゃんとした形で後世に残そうというのが製作意図であろうから、雰囲気より正確さということなのだろう。それにしては編集が乱暴で、流し気味に聴いていてもテープの継ぎ目がはっきり判るのはいただけない。「圓生の録音室」によれば、編集には圓生自身が立ち会っているはずだから、演者公認の編集ということになる。例えば「鰍沢」で旅人が月ノ輪お熊に雪の中を追いかけられる場面で、「所も名代の釜ヶ淵」と地で言い立てる箇所。圓生はずっと「釜ヶ淵」と口演していたが、本録音では録音した後に地理考証が入ったのか、地名を実際にある「蟹谷淵」に直している。この「蟹谷淵」の一単語だけが切り貼りされていて大変違和感があるのだ。恐らく録音技術者からすれば、訂正箇所の前後を少し長めに録り直して、違和感の少ないところで切り貼りしたいのだろうが、なまじ編集作業に演者が立ち会って「これでいい」と言われてしまい、もう手を出すことが出来ないような事情があったのではないか。口を出しすぎて失敗するパターンであるが、圓生らしいといえば圓生らしい。
さて、全編どうにか聴き終わった感想は、よくぞ残してくれたという一点。この仕事は文樂にも志ん生にも不可能だし、圓生より後の世代にも無理だ。最適任の圓生にこの仕事をさせたプロデューサーの功績も光る。そして、今後聞き直すことがあるかと考えると、これも微妙。人情噺は聞き返すと思うが、落とし噺は面白味に欠けるので、比較対照用に引っ張り出すことはあっても、単独で聞き直すことは殆ど無いだろう。とにかく偉大な資料として評価したいと思う。
ところで、このCD五十八巻だが、最初に買った十三巻以外はレンタルCDからMP3変換して携帯音楽プレイヤーで聴いた。著作権法が改正されたようだが、今後このような聴き方は違法になるのだろうか。
音楽業界はCDが売れないのは違法ダウンロードのせいだと主張しているようだが、大きな間違いだと思う。CDが売れない最大の理由は音楽自体に魅力がないのと、CDという商品形態が時代遅れになってきていることだ。今後は有料ダウンロード販売が主流になっていき、聴取形態も携帯プレイヤーが主流になるだろう。部屋でゆっくりCD(LP)を楽しんで、アルバムとしての曲の配列の妙に感じ入るなどという聴き方は過去のものだ。
消費者にとって音楽とは、タダなら聴きたい曲、安くダウンロードできるなら聴きたい曲、廉価版CDなら買いたい曲、CDを買いたい曲などという段階があると思う。CDが売れないのはCDを所有するほどの魅力がない(ダウンロードやレンタルCDで十分な)曲ばかりだということだ。
私自身も圓生百席(人情噺集成分は除く)はCDを買う気がなく、レンタルCDがあったので聴いてみたが、志ん朝のCDは東横落語会や大須演芸場の高価な組物まで購入している。
音楽業界が著作権法を厳しくするのは自らの首を絞める行為だ。ろくな品揃えじゃない店は、万引きの取り締まりに血眼になるより、魅力ある商品を揃えるのが先ではないだろうか。
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