復活の休憩
先日、下野竜也指揮の読売日本交響楽団によるマーラーの交響曲第2番「復活」(九月一日東京芸術劇場)を聴いたが、この日の演奏で一つ面白いことがあった。
第一楽章が終わると指揮者は静かに手を下ろす。客席は暫く咳払いなどでざわめくが、やがて静かになる。しかし、指揮者は指揮台の上で身じろぎもしない。暫く沈黙が続いた後、舞台上下の扉が開き、後半にしか出番のない奏者(オルガンなど)数名が登場し所定の席に着く。指揮者はまだ身じろぎもせず、再び沈黙が続く。また暫くして指揮者がコンサートマスターに目配せすると、コンサートマスターが立ち上がりチューニングが始まる。チューニングの途中から舞台下手の扉が開き、独唱者二名が登場。オーケストラと合唱団の間の席に着く。チューニングが終わって独唱者が揃っても、相変わらず指揮者は身じろぎもせず沈黙が続く。客席の我慢がそろそろ限界かと思われた頃、指揮者がおもむろに手を上げて、第二楽章の演奏が始まる。計ったわけではないが第一楽章終了から第二楽章の開始まで五分以上は経過したと思われる。
なぜこんな間を空けたのかは、この曲のスコアを見れば一目瞭然。第一楽章の終止線の下に、「Hier folgt eine Pause von mindestens 5 Minuten.(ここで最低五分の休憩を入れる)」と記されているのだ。第一楽章と第二楽章以下の内容に差があるので、一区切りして気分を変えて欲しいという、作曲者マーラーの注文である。
この指定を実際の舞台でどう運用するかは指揮者の考えによるのだが、このように何もせずに五分待たされたのは初めての経験だ。大抵はチューニングをする程度でサラッと第二楽章を始めてしまうことが多い。指揮者が悩むのは、指定通り通常のプログラム半ばで行われる十五分程度の休憩を入れてしまうと、完全に音楽が分断されてしまい、休憩後に拍手を受けて登場することにより、更にここから新しい曲が演奏される雰囲気になることだろう。気分は変えたいのだが、完全にリセットされても困るという所だろう。
今まで実演で聴いた中で、うまいやり方だと感心したのが尾高忠明指揮NHK交響楽団による演奏(一九九一年十一月)で、一楽章が終わるとすぐに舞台の照明が暗くなり休憩に入り、休憩明けは舞台が暗いまま指揮者を含む全演奏者が揃い、チューニングが終わった所で舞台の照明が点灯、すぐに第二楽章演奏開始というものだった。休憩入りも休憩明けも拍手が起こらないので、ちゃんと休憩を取ったのに、演奏の連続性は保たれていた。
下野も色々考えて今回のやり方に辿り着いたのかも知れないが、聴衆の立場ではかなり疑問が残る。何よりも無駄な緊張を聴衆に強いることの疑問だ。煌々と明るい舞台上で三百人もの演奏者が身じろぎもしない様子を黙って見させるのはかなりの苦痛だ。そして、マーラーの指示を知らない聴衆にとっては、何故みんな黙っているのか判らず、どうしていいのか判らないだろう。マーラーの意図は客に緊張と苦痛を与え、疑問を抱かせることではないはずだ。その点、尾高の方法は不自然さが無く秀逸だった。
素人の勝手な妄想だが、ここの休憩の取り方は、まず合唱団を入れずに第一楽章を演奏。第一楽章が終わったら舞台の照明を落とす。合唱団、ソリストが続いて入場。全員揃った所でチューニング。チューニングしながら舞台の照明が点灯。第二楽章演奏開始という進行ではないだろうか。指定通り五分以上かかるかは微妙だが、五分以上というのはあくまで目安と考えていいと思う。舞台が狭くて、オーケストラが乗った状態で合唱団が出入りできないのであれば、尾高方式でいいと思う。
バーンスタインのフィルムなどを見ると、第二楽章が終わった所で独唱者が普通に拍手を受けながら登場したりしている。演奏の内容さえ良ければ、細かな段取りなどはさほどの問題ではないと思う。しかし、下野はまだ若手指揮者だから、このような細かな点で、色々試行錯誤するのは結構なことだ。
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