さよなら幸兵衛
大人の男として持っていたいものの一つが行きつけの飲み屋ではないだろうか。ここ五年ほど、土日の休みにすることがないと地元(徒歩十分くらい)の飲み屋に昼飲みに行って、その後ゆっくり風呂に入るのが生活パターンになっていた。雑居ビルの一階の角、床面積は約二坪。L字型のカウンターの短い部分に焼き台がある作りで、満席で七名収容という店だ。現在は土日の昼間だけの営業で、客層は常連客ばかり。近所の馬券売り場で馬券を買い、一杯やりながら結果を待っているという非常に回転の悪い店である。
元は現在の女将の母親が戦後間もなく始めた飲み屋で、以来六十余年、経営は娘が引き継ぎ、区画整理で場所は移ったが営業を続けてきた。元は普通の飲み屋と同じく、平日夕方の営業だったのだが、毎日営業するのが体力的にきつくなってきたので、ここ十年ほどは競馬開催日のみ昼間の営業となったそうだ。そんな事情なので、客は顔見知りの常連客ばかり。殆どが悠々自適のリタイア組で、四十代前半の私は最年少の新参者だ。
大体私が顔を出すのが正午頃。土曜でも日曜でも番頭格のイタさんが来ていて、日曜だと近所の和食居酒屋の大将であるマンちゃんとアカさん夫婦が来ている。これが十二時台のレギュラーメンバーで、二時頃になるとタカヤマさん、マキさん、サトウさんが現れる。その他にも毎土日来るわけではないが、ホンマさん、スズキさん、イノさん、クロカワさんなどが加わり、私はそろそろ席を譲って帰宅する。以前はイタさんと共にいつでも居たサンちゃんは体を壊して姿を見せなくなり、エンドウさんは震災後に被害を受けた故郷に帰ってしまった。ホシノさんは最近来ないので皆心配しているが、誰も消息を知らない。
大体滞在二時間半ほどで、ビール大瓶、焼酎ウーロン割り(冷・温)数杯、つまみ二品、やきとり三本というのがいつものパターンで、勘定は千六百円くらい。焼酎はボトルで入っていて、ウーロン茶と氷は無料。女将や周りの常連客とどうでもいい世間話をしたり、競馬中継を見て当たった外したと騒いでいるのを一緒になって冷やかしたりしていると、あっという間に席を譲る時間になってしまう。本当に居心地の良い場所であった。勿論、こんな単価の安い客ばかり相手に、土日だけ営業していたのでは家賃すら払えるとも思えず、女将が道楽でやっているようなものだった。
遂にこの飲み屋、幸兵衛が六十余年の歴史に幕を下ろすことになった。女将も齢七十五、体力的にきつくなってきたし、元気な内に息子の嫁や孫達と遊びたいということなので、残念だが仕方ない。今までよくぞこんな儲からない客相手に店を続けてくれたという感謝の気持ちだけである。
最終日の二十四日は混雑を予想して少し早めに入店。イタさんの他にスズキさんが娘と孫を連れてきている。スズキ一家と入れ替わりにホンマさん、続いてタカヤマさん、アカさん、マキさんが来店。競艇に行くというイタさんを「競艇はいつでも行けるんだから今日はよしなよ」と焼酎を注いで引き留め、いつも通りサトウさんと入れ替わりで店を後にした。
手帳を調べてみると二〇〇七年から一七二回この店に飲みに行ったことになる。幸兵衛がなくなると休日の楽しみが減ってしまうが、どう考えても代わりになる店は見つからないだろう。休日の昼飲みをやめればいいだけの話だが……。
たった五年ではあったが、居心地良く入り浸れる飲み屋に出会えたことに感謝したい。ありがとう幸兵衛、ありがとうおっかさん。
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