インバルの[新]マーラー・ツィクルス第Ⅱ期
インバルの[新]マーラー・ツィクルス第Ⅱ期
インバルと都響によるマーラー・ツィクルスの第Ⅱ期が始まった。セット券が購入出来なかった事についてはここに書いたが、やはり全部通しで聴いてみたい気持ちを抑えられず、各公演の一回券を購入した。芸劇公演は一回券が殆ど出なかったので、我等負け組は横浜公演を主に聴くことになる。これに来年予告されている第十番を聴けば、一応今回のツィクルスプラスアルファをコンプリートしたことになる。
【第六回】
マーラー/交響曲第六番イ短調「悲劇的」
管絃楽/東京都交響楽団
指揮/エリアフ・インバル
二〇一三年十一月二日(土)横浜みなとみらいホール
第六番は難しい曲だ。人気のある復活や第五番よりは内容が深いが、濃縮されすぎていて息苦しい。長い第四楽章は下手な演奏に当たると退屈である。随所で鳴らされるカウベルが一瞬のどかな音楽を装うが、まったくのどかなどではなく、集中力を要求される曲だ。また、打楽器が舞台上と舞台裏との出入りが激しく、ハンマーの打撃もあるので事故の起こりやすい曲でもある。
同一プログラム二日連続公演の初日なので、予想通りペース配分を考えた演奏だった。第一楽章はかなり抑え気味で、コーダの加速でようやく乗ってくる感じ。なのでやや集中力に欠ける印象だった。とはいえ、要所要所はインバルの老獪な表現で大きなルバートやテンポの変化があり、都響も心得ているから決して凡演ではない。第二楽章(スケルツォ)も同じ傾向で、メリハリは効いているがまだ通常モードな感じ。第三楽章(アンダンテ)から都響も本気モードに入ってきて、明らかに良く鳴るようになってくる。第四楽章ではインバルも手綱を緩めてオーケストラを煽る。第一楽章の抑えた感じからは想像もつかないような集中力で、長いこの楽章が全く弛緩することがなかったのは素晴らしい。ハンマーは舞台下手奥に位置して、小さめのハンマーで平台を叩いていた。木管のベルアップ同様、音よりは視覚に訴える意味が大きいと思うので、もっと目立つ場所で派手に叩いても良かったと思う。また第四楽章半ばで、ハープの弦が切れる事故があった。ヴァイオリンなどはよく切れるが、ハープは珍しい。
第一楽章提示部でトランペットのソロが裏返り、繰り返しの時も同じ吹き損じをした。それ自体はよくある事故で咎めるような事では全くないが、問題はその奏者の態度。裏返った時に明らかにシマッタという表情で首を傾げ、その後演奏中からカーテンコールまで、ずっとうなだれ続けていた。同情されたい中学生じゃないんだから客の前であの態度はないだろう。ミスっても舞台上では何事もなかったように振る舞い、舞台袖に引っ込んでから落ち込むのがプロというものだ。N響の首席トランペットを見習って欲しい。
また、最終音が消えた瞬間にブラヴォーと叫んだ奴がいて、緊張した空気を一発でぶちこわしてくれた。たった一人の馬鹿者の叫び声で、二千人の作り出した良い緊張感を台無しに出来るというのは、精神的なテロと言っても差し支え無いだろう。あの男がセット券を持っている可能性は大いにあるので、七、八番はいいとしても、九番の時には何か対策を立てないと、暴動が起こる可能性がある。ネットニュースの見出しに「ブラボーと叫び袋叩き」なんてのが出ないことを祈る。
【第七回】
マーラー/交響曲第七番ホ短調
管絃楽/東京都交響楽団
指揮/エリアフ・インバル
二〇一三年十一月八日(金)横浜みなとみらいホール
第六番は難しいと書いたが、第七番は捕らえどころがない曲だ。結論から書くと、先週の第六番より、ミスがないという点では完成度は高かった。冒頭のテノールホルンがちょっとひっくり返った以外に目立つミスは無く、都響はインバルの指示通りに演奏していた。先週同様、前半は抑え気味だが後半になって暖まってきて、インバルと都響のコンビネーションが発揮されていたが、曲が不出来なことは致命的だ。マーラーが好きなので、一般人より相当多くこの曲を聴いているはずだが、百パーセント納得したことは一度も無い。殆どの場合、演奏者の健闘をたたえつつ、曲に対する疑問がどうしても残ってしまう。最後の最後で盛大に鳴らされるカウベルの音に、マーラーの意図を読み取ろうとしてしまう私が馬鹿なのだろうか。インバルは第四楽章と第五楽章をアタッカで演奏していた。ここでチューニングでもしてくれれば、ベートーヴェンの第九の終楽章同様、ここまでとは関係ない馬鹿騒ぎと割り切ることが出来るのだが、凡庸な私には第九も夜の歌も、終楽章とそれまでの関連が理解できないし、アタッカで演奏する意味が解らない。
愚痴になってしまったが、演奏自体はとても素晴らしく、おそらく今現在生で聴けるこの曲の最高水準の演奏だろう。それ故に曲の弱点を感じてしまった。インバルは相変わらず押さえどころはきっちり押さえて、外連味たっぷりなルバートや表情を加えたりしていた。それなのに百パーセントの満足に到達できないのは、インバルが終始冷静だからかも知れない。この曲の理想の演奏には、緻密なリハーサルだけでなく、バーンスタインやテンシュテットのように、マーラーが憑依してしまったかのような没入感が必要なのではないか。
【第八回】
マーラー/交響曲第八番変ホ長調「千人の交響曲」
独唱/澤畑恵美、大隅智佳子、森麻季(ソプラノ)
竹本節子、中島郁子(メゾソプラノ)
福井敬(テノール)、河野克典(バリトン)、久保和範(バス)
合唱/晋友会合唱団(合唱指揮/清水敬一)
東京少年少女合唱隊(合唱指揮/長谷川久恵)
管絃楽/東京都交響楽団
指揮/エリアフ・インバル
二〇一四年三月八日(土)東京芸術劇場
二〇一四年三月九日(日)横浜みなとみらいホール
第八番の通称「千人の交響曲」は二公演とも聴く。横浜のチケットはすんなり取れたが、芸劇はセット券のみで完売。通常とは違う方法で何とかチケットを入手した。
インバルの千人は二〇〇八年のプリンシパル・コンダクター就任披露演奏会で取り上げ、その時の演奏がCDにもなっている。その時と違うのは第二第三ソプラノ、第二アルト、バスのソリストと児童合唱だけ。勿論、インバルの基本的アプローチは変わらないが、この六年間で都響との信頼関係がより深まった印象で、演奏の出来はより練られたものとなっていた。目立った違いは、第二部の神秘の合唱で、最初の五小節毎に大きく間を取るのが新機軸だった程度だ。初日の芸劇では第一部は抑え気味で、第二部の後半になってかなりテンションが上がってきた感じだった。二日目のみなとみらいでは第一部からハイテンションで、第二部の導入部も前日より遅いテンポでオケを鳴らし切っている印象で、このまま進むととてつもない名演になるかと思われた。ところが、前日もつんのめり気味で不安定だった法悦の教父(バリトン)が一小節早く歌い出してしまった。インバルがすぐに制して歌い直したのでハッとする程度の事故だったが、演奏者全員が気づくミスだったので、ここで一旦緊張の糸が切れた感は否めず、そこから持ち直すまでに暫く時間がかかった。しかし第二部後半は再びテンションも上がって来て、圧倒的な完成度の演奏となった。
声楽陣は実力者揃いだが、バスはいつも通り声量不足。瞑想の教父のソロをオケにかき消されずに歌える日本人の歌手などいないと思うが、それにしても歌い方が一本調子で、懐の深い表現とも違い物足りない。バリトンは二日目もつんのめり気味だったので、ゲネプロのテイクがないとCD化は難しいかも知れない。第二ソプラノはヴィブラートが少なめのとても美しい声質だったが、若干声量が足りず苦しかった。また第三ソプラノは栄光の聖母にしては声質が合わない。音域の問題は別にして、声質だけで言ったら第二と第三のソプラノを入れ替えた方がいいように感じた。テノールは抜群の声量だが、相変わらず陶酔しすぎの歌い方で、この曲には合わないと思う。
合唱の晋友会は三百人強くらいで、全員暗譜なのは立派。安心の晋友会で、アマチュアとして望みうる最上の合唱だ。児童合唱の東京少年少女合唱隊も素晴らしい。もっと少人数なら更に上手な児童合唱団もあるかも知れないが、百人規模でこれだけのクオリティの団体は他にないだろう。
都響の編成は十六型で、管の編成は楽譜通り、ハープだけ倍にして四台。ティンパニは四台一セットプラス一台。芸劇ではかなり広めに仮設の張出舞台を組んで、舞台上にはかなり余裕がある感じで、混声合唱は正面の雛壇、児童合唱は下手側のバルコニー席に配置されていた。横浜では舞台上に児童合唱を並べ、Pブロックに男声合唱と独唱者、LA、RAブロックに女声合唱を配置して合唱がオーケストラを取り囲んでいた。両日とも栄光の聖母は下手側二階のバルコニー席に、金管のバンダは倍管にして三階席の上下に配置されていた。インバルは毎回バンダをこのように配置するが、栄光の聖母の呼び掛けにマリア崇拝の博士が応える構成なのだから、二人は対峙しなければならないし、金管の音が客席全体を包む効果は素晴らしい。こういう部分がマーラー指揮者のツボで、安易にオルガンの前に並べたりしないところは流石である。また、いつも通り独唱陣をオーケストラと合唱の間に配置していた。声楽曲的な第一部ではこの位置が好ましいが、オペラ的な第二部では舞台前面に独唱者を配置したい。今まで随分千人を聴いたが、第一部と第二部で独唱者の立ち位置を変えた例は見たことがない。誰か試してくれないだろうか。
【第九回】
マーラー/交響曲第九番ニ長調
管絃楽/東京都交響楽団
指揮/エリアフ・インバル
二〇一四年三月十五日(土)東京芸術劇場
インバルの新マーラーチクルスも、いよいよ最後の第九番である。三日連続公演の内、初日の池袋で聴く。
インバルの九番は日本フィルを振った一九七九年のライヴがCD化されているが、三十五年経っても基本的なアプローチは変わらない。他の曲も同様だが、基本テンポは速めで推進力をもって進んでいき、撓めるところでは思い切って表情を付ける。この方針で一番から八番まではとても濃縮された濃い名演を繰り広げてきた。今回の九番も同様だ。インバルの意を酌んだ都響も相変わらず反応が良く、危なげのない演奏を繰り広げていく。三日公演の初日なので、やはり前半は抑え気味であったが、肝心の第一楽章が薄味になることはなくペース配分も万全だ。第四楽章では盛大な音の洪水から最後の静寂へ向かって、マーラー指揮者と手兵オケの面目躍如と言うべき名人芸を堪能出来た。正に現在日本で聴き得る、最も上質で安心のマーラーであり、チクルスの最後を飾るに相応しい名演であった。
客観的には以上のような感想になる。個人的には特に第一楽章の速めのテンポ設定が不満であった。今まで印象に残ったこの曲の名演に超スロー演奏が多かったせいか、ここ一番でテンポを思い切り落として粘着系の表現をして欲しい。最初からインバルにそんな期待はしていないのだが、全体の完成度が高いのでついつい無い物ねだりをしたい気持ちになってしまうのである。理想のスタイルではないけど圧倒される、昔で言えば朝比奈のブラ一を聴いた時のような気分であった。
この演奏会では三階席の上手側で聴いていたのだが、第三楽章の途中で最前列の方が騒がしくなり、席を立ったり戻ったりしている客が居た。何だろうと思って見ていると、年寄りが倒れたのを近くに座っていた客が係員を呼びに行き、最後は失神した老人を自分で背負って救出しているようだった。演奏会中の急病人というのは高齢化が進むクラシック音楽界では深刻な問題になってくるだろう。ホールの案内係は地方のホールなどにいくと女性ばかりの時がある。見た目は華やかでいいのだが、緊急対応を考えれば力のある男性スタッフが居ると頼もしいと思う。率先して老人を救出した件の客に、心から敬意を表したい。
【総括】
丸二年をかけてインバルと都響によるマーラーの交響曲を一番から九番まで順番に聴くことが出来た。全て同じホールで聴けなかったのは少々心残りだが、なかなか出来ないいい経験だったと思う。結論から言えば、インバルと都響のマーラーは今現在最上の組み合わせで、世界中でもこれだけのクオリティでマーラーチクルスを出来るコンビはそうは居ないだろう。勿論、オケの技量だけならもっと巧いオケはあるだろうし、曲によってはインバル以上の表現者は居るかも知れない。しかし、九曲並べてこれだけのレヴェルを維持出来るというのは、インバルと都響の良好な関係があればこそだろう。都響が四回目のマーラーチクルスを、七十代後半になったインバルと成し遂げ、それを全て聴くことが出来たことは本当に運が良かった。夏目漱石の柳家小さん(三代目)賛歌を引き合いに出すまでもなく、インバルのマーラーチクルスを、そしてバーンスタイン、山田一雄のマーラーの九番を聴くことが出来た幸運に感謝したい。そしていつか、この歳まで生きていて良かったと思えるような演奏に巡り会いたいものである。とりあえずは七月に予定されているインバルと都響によるマーラーの交響曲第十番(クック版)が楽しみである。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント