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2014年6月29日 (日)

橘丸の初航海

橘丸(東海汽船 貨客船 五六八一総噸)
二〇一四年六月三菱重工下関造船所で竣工
二〇一四年六月二十七日東京~三宅島~御蔵島~八丈島航路に就航

 東海汽船の二十二年ぶりの新造船、橘丸の初営業航海に乗船してみた。本来ならば八丈島で一泊して島焼酎でも楽しんできたい所だったが、土日の連休が取りにくい仕事をしているので、先日のかめりあ丸最終航海同様、夜行着発での乗船となった。

 竹芝桟橋の待合所には橘丸の幟が立っている程度で、特段祝祭ムードはない。金曜の夜なので待合所内は人が溢れている。東海汽船名物の何を言っているのか聴き取れないトラメガで誘導し、「さるびあ丸御列」「橘丸御列」という看板の前に並ばせる。近くの人がうるさく感じるからトラメガを天井に向けるので何を言っているのか聴き取れない。行き先が書いていないから初めての人はどっちに並べばいいのかまごつく。屋内用の拡声器を購入し、「大島、利島、新島、式根島、神津島行」「三宅島、御蔵島、八丈島行」という看板に書き換えるだけで解決する問題だが、何十年も改善されない。これが所謂東海クオリティだ。ハイテク新造船が就航しても、オペレートに関しては何十年も全く進歩が無い。

 橘丸の船内は新しいだけあって大変快適だ。特に二等和室が一人一人の区画に仕切板とコインロッカー(返却式)が設置されたのがすばらしい。二等室での二大問題、寝相が悪いと隣のオッサンと至近距離で見つめ合う態勢になる、船内を動き回るのに貴重品を持ち歩かなければならない、という点が改善された。特二等にもコインロッカーが設置された。、一等以上の客室は見ていないので何とも言えない。喫煙室、キッズルーム、授乳室、ラウンジ、ペットルームは在来船にはなかった設備だ。
 船室はさるびあ丸と同じ五層だが従来のAデッキに当たる最上階の六甲板には屋根が無く雨ざらしで、Bデッキ後方(さるびあ丸では一等室部分)が遊歩甲板になっている。従来よりも船室を減らして定員を絞った感じがする。Aデッキをオーニングで囲って客を雑魚寝させて、二千人も載せることが当たり前だった三十年前の設計とは大きく異なる所だろう。また、従来船ではCデッキにもあった外通路が無くなったので、船尾側の見た目が随分平べったく感じる。従来Cデッキにあった船尾のウインチ類が一段高いBデッキに設置されたので、真四角なトランサムスターンになったことも相まって、のっぺりした船らしさのない船尾だ。やはり船のお尻は丸い方がいいと思う。もっともこれは趣味の話で、設計者からすればポッド推進船にクルーザースターンなんて全く無意味と一笑に付されるだろう。また、従来の上からA、B~Eデッキという呼び方ではなく、上から6、5~2Fと表記されているが、船内の案内放送では「四甲板(よんこうはん)案内所」と言っている。アルファベット+デッキで呼ぶのをやめるなら、表記と呼称を統一しないと判りにくい。最初から表記と呼称がバラバラなあたりも東海クオリティーである。
 乗ってみた感想は下層船室でもエンジン音が随分静かで振動も少ない。これはエンジンの進歩のおかげだろう。海況が穏やかだったので揺れについては何とも言えないが、さるびあ丸と変わらないのではないか。幅が広くなった分、接岸時のローリングは幾らか軽減されるかも知れないが、これらについては波の荒い時に乗ってみないと判らない。レストランはまだオペレーションが不慣れでまごついていたが、瓶ビールおいてあるのが好ましい(中瓶なのが残念、大瓶ならよかった)。唯一地域色のあるメニュー「明日葉の天ぷら」(三百円)を頼んでみたが、衣の厚いところは未だ揚がっておらずニチャニチャしている上に、油が切れていなくてベットリ油が溜まっているという、中学生が初めて天ぷらに挑戦したような代物が出て来た。見ただけで胸焼けがしそうで、一箸しか付けられなかった。せっかく地域色のあるメニューなのだから、厨房の技量を上げて看板メニューにして欲しい。
 そして、船内には柳原良平の絵や作品(グッズ)などがあちこちに配置されて居る。橘丸と命名したところまでは良かったが、この奉りぶりは目に余り不愉快だ。最初から懸念事項であった船体の配色は、実際乗ってみると甲板全体が黄色くて全く落ち着かない。船会社に勤める友人に写真を送ったところ、「南極探検船みたいな船ですね」という的を射た返事が来たが、竹芝で乗船する時も、周りで「何でこんな黄色くしちゃったの」とか「ひどい色だねこりゃ」という声が聞こえてきた。最後の一人になっても私は主張するが、橘丸の配色はとても格好悪い。そして、柳原良平を持ち上げることで責任をなすりつけようとする東海汽船の姿勢はもっと格好悪い。東海汽船という会社の体質からして、評判の悪い配色については柳原良平の責任にして言い逃れし、柳原が死んだらドック時にしれっと塗り替えるのではないだろうか。毎回橘丸のことを書くと、配色のことで批判になってしまうのが残念である。柳原関係で良かったのはラウンジにある橘丸物語りのパネル(※)だけである。せっかくだから船内の柳原関係を外して、先代橘丸の模型や写真を展示してみてはどうだろうか。せっかく栄光の船名を柳原大先生が復活させてくれたのだから、大先生を奉るのではなく、船名の由来の方をアピールするべきだろう。竹芝や下田の待合所で埃をかぶっている模型だって、三代目橘丸の船内に展示してもらう方がいいだろうと思うのだが。

※柳原良平・西村慶明著「“橘丸”物語り」(一九七二年至誠堂)は二代目橘丸の引退に際し出版された、橘丸の歴史を綴った絵本。ラウンジの壁面には、この本をそのままコピーしたパネルが掲示されている。

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2014年6月 9日 (月)

さよならかめりあ丸

かめりあ丸 東海汽船 貨客船 三八三七総噸

 東海汽船の貨客船かめりあ丸が、六月八日の神津島発東京行き航海を持って、伊豆諸島航路から引退した。一九八六年の就航から二十八年。本当に長い間お疲れさまでしたと言いたい。
 デビュー当時何だか頼りなかった(理由は後述)かめりあ丸だが、気がつけば二十八年。名船すとれちあ丸や黒潮丸の二十四年、初代さるびあ丸の十九年を遙かに超えて、戦後自社製造船の中では最も長い船歴となったのは、景気の冷え込みなどで新造船をなかなか作れなかった事情もあるだろうが、この船が使い勝手が良かったということだと思う。かめりあ丸以降に建造されたかとれあ丸、はまゆう丸などが比較的早い時期に(在来型純客船の需要低下という航路事情はあるが)引退していった中で生き残ったということは、高性能ではないが使いやすかった船、そんなかめりあ丸だったと思う。

 私の船好きは現在第三期に当たっている。第一期は船に目覚めた五~六歳の頃。父親の伊豆大島赴任という判りやすいきっかけから。第二期は高校生の頃。その後クルマの免許を取ったり鉄道乗りつぶしに凝った後に船に戻ってきて現在第三期。第二期と第三期にまたがって活躍している船はこのかめりあ丸と、神新汽船のあぜりあ丸だけである。

 一九八〇年代後半、関係者にとっては夢のようだった離島ブームは去ったものの、夏の離島航路需要はまだまだ華やかだった頃、かめりあ丸は建造された。全盛期には二年ごとに新造船が就航していた東海汽船だが、今回は八年ぶりで久々の新造船だ。八年先輩のすとれちあ丸とは、ほぼ同じ規模の貨客船である。

かめりあ丸(一九八六年三月竣工)三七五一総噸(後に三八三七総噸)
全長一〇三m、全幅十五、〇m、十七、五ノット、コンテナ二十五個、アンチローリングタンク装備

すとれちあ丸(一九八七年4月竣工)三七〇八総噸
全長一一一m、全幅一五、二m、二〇、三ノット、コンテナ二十六個(+十六個)、フィンスタビライザー装備

 八年も新しい船なのに、全長では八メートル短く、巡航速度は三ノット遅い。コンテナ積載数は船倉ではほぼ同じだが、すとれちあ丸は後部にデリックが付いていて甲板にコンテナを積める。何よりフィンスタビライザーがアンチローリングタンクに戻ってしまったのは大きな後退と感じられた。東海汽船はパンフレットなどで新造のかめりあ丸を三八〇〇トン級、すとれちあ丸を三七〇〇トン級と表記することで、かめりあ丸のフラッグシップ色をアピールしたが、スペック上明らかに劣っていることは明らかだった。これは、すとれちあ丸が三八航路(東京~三宅島~八丈島)、かめりあ丸が片航路(東京~大島~利島~新島~式根島~神津島)への就航を前提として建造されているからである。従来の東海汽船船隊の巡航速度(かとれあ丸、ふりいじあ丸、さるびあ丸の十七ノット)では、距離の長い三八航路のデイリー運航は全く余裕が無い。そこで、船足を速くし、貨物輸送の需要も多いのでコンテナ積載量を多く、黒潮を横切る過酷な海域を行くので横揺れ防止のフィンスタビライザーを搭載したのがすとれちあ丸。片航路前提なので、従来の客船にコンテナ積載機能を加えただけのかめりあ丸という設計思想である。航海資格はすとれちあ丸が小笠原にも行ける近海資格、かめりあ丸は八丈島には行けない沿海資格である。新幹線車両で言えば五〇〇系と七〇〇系の関係に似ている。
 すぐにかめりあ丸はフィンスタビライザーを搭載し、近海資格となる改造を受けることになる。この辺の経緯は知らないが、素人考えに三八航路のドック代船が必要なことぐらい判っているのだから、最初から二隻の貨客船を同じスペックにしておけばよいものをと思ったものだ。これは後に現さるびあ丸を建造した時も沿海資格で建造し、すとれちあ丸引退の時に近海資格に改造している。東海汽船という会社は長期的な計画を立てるのが苦手なようである。
 一九九二年に現さるびあ丸が就航し、東京湾納涼船の役目を譲る。二〇〇二年にすとれちあ丸が引退し再び貨客船二隻体勢となると、通常は片航路、五月の連休と納涼船運航期間は三八航路という運用になる。そのため三八航路は鈍足のかめりあ丸を考慮したダイヤを組んでおり、それでも東京着がさるびあ丸より二〇分遅く、時刻を見れば配船が判るという、東海汽船ファンだけには有り難い状態となっていた。
 先輩のすとれちあ丸は昭和天皇のお召し船となったり、定期航路の三宅島で座礁事故を起こしたり。一九八六年の大島噴火、二〇〇〇年の三宅島噴火では島民の避難に活躍したりと、波瀾万丈の船歴だった。それに引き替えかめりあ丸は、ウィキペディアの記述が正しいなら一九八六年の大島噴火でも避難輸送に加わっていない。特筆するような活躍は無かったけれど、地道に乗客と貨物を運び続けて二十八年。そんなかめりあ丸の最終航海にせっかくだから乗ってみることにした。

 土日休んで式根島か神津島で一泊したかったのだが、土曜日が休めず、残業後に銭湯に寄って夜行日帰りの強行軍となった。生憎の雨で甲板にいても水しぶきがかかるので、横浜を出るとすぐ就寝。
 翌朝は目が覚めるような快晴。大島岡田港からは伊豆半島、房総半島、富士山がすぐ近くに見える。大島を出ると利島、鵜渡根島から御蔵島までが一望出来る。降雨後で空気が澄んでいて心地よい。海上は時折うねりが入るものの、ほぼべた凪。勿論全島就航である。目出度い。
 下り便は淡々と発着するのかと思いきや、式根島は太鼓が並んで既にお祭り気分。神津島前浜港で一旦下船する。かめりあ丸三役(船長、機関長、事務長)を迎えてのセレモニーを見学し、登り便に乗船する。式根島野伏港は太鼓にバンド、ミス式根島、そしてクサヤマンというゆるい着ぐるみが駆け回っていて賑やかだ。新島黒根港は整然とした島太鼓が見事だが、船長の答辞にかぶってしまい段取りが悪い。式根島から新島の間では村営船にしきと反航、新島を出ると神新汽船あぜりあ丸と反航、いずれも汽笛でお別れの挨拶をする。利島は太鼓はないものの、元気な島民はみんな集まったような騒ぎ。特に段取りは無く、てんでにかめりあ丸を見送っている。かえって一番温かで心に残る見送りだ。宮塚山に長声三発がこだまする。いずれの島も紙テープを盛大に使った見送り。このような場合なので海が汚れるとか野暮は言いっこなし。
 ここまでは素朴な生活航路のお別れだったが、大島はちと様相が違う。七日が伊豆大島トライアスロン大会だということは承知しており、混むことは予想していた。しかし予想以上の人出で、Aデッキはあっという間に一杯になる。何でも荒天のため大会は中止になったらしく体力の余っている連中は、Aデッキ一面に毛布を敷いて酒盛りが始まる。御神火太鼓に見送られて元町港を離れると、沖には橘丸が待機しており、乳ヶ崎沖まで並走追尾。新旧の両船が並走するという粋な演出である。岡田港に接岸訓練に行く橘丸と別れると、今度は左舷側にイルカの群れがいる。小魚の群れを追っているのだろうが、まるでかめりあ丸を見送るように、ジャンプしたりしている。もしかすると東海汽船が雇ったイルカかも知れない。当然船上は大騒ぎになり、Aデッキの客は全員左舷に集まって船が若干傾ぐ。十数年前の「遊覧船ヌーディストビーチで転覆」という馬鹿ニュースを思い出す。

 最終航海ということで、かめりあ丸は最上階の船橋甲板を解放。もしかすると納涼船以来二十二年ぶりの解放かも知れない。出来れば船橋下のベランダ部分やFデッキ旧娯楽室も解放して欲しかったが、それは叶わなかった。また、式根島~神津島間では式根島郵便局が船内に出張してきて、かめりあ丸切手シートを販売。竹芝の売店ではかめりあ丸のピンバッジを販売するなど、グッズも色々作られてついつい財布の紐が緩む。

 追い上げてきた僚船のジェットフォイルに虹、友、夢の順に追い抜かれ、横浜港では元関西汽船くれない丸のロイヤルウイングを追い抜く。横浜からは「せめて最後だけでも」と思ったのか、尋常でない人数の横浜~東京区間乗船者を乗せて、いよいよ東京へラストラン。船の科学科沖からいつも通り夜空のトランペットが流れて20時竹芝桟橋に着岸。無事に二十八年の営業航海を終える。船長、機関長、事務長の三人に見送られてかめりあ丸を後にする。

 高校生の頃から数え切れないほど乗ったかめりあ丸。彼女の引退で伊豆諸島航路の昭和が終わる気がする。今後は海外売船になるようだが、速く第二の人生の地が決まって欲しいものだ。

 かめりあ丸、ありがとう、そしてさようなら。

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2014年6月 3日 (火)

北海道珍スポット巡り

北海道珍スポット巡り

北海道天徳大観音 高さ八十八メートル 一九八九年竣工

 札幌交響楽団を聴きに久しぶりに北海道に渡ったのだが、せっかくだから幾つかの珍スポットを回ろうと画策。急行はまなすで札幌に朝六時着。演奏会は午後二時からなので、その間に北の京芦別の跡地にある北海道大観音を観に行く。特急スーパーカムイと富良野線を乗り継いで芦別に着いたのが8時35分。駅前からタクシーで北の京芦別跡へ向かう。
 北の京芦別は一九七〇年に芦別レジャーランドとして開業、一九八八年に北の京芦別と改称、一九八九年に北海道大観音が建立される、北海道では最大級のレジャーランドだった。しかし、二〇〇八年に経営破綻後、所有者が次々に変わって、二〇一三年八月末をもって閉鎖された。まだ閉鎖されて一年経っていないので、珍スポット探訪で良くある惜しいけど間に合わなかったパターンだ。最も今回は閉鎖されていることを承知の上で、跡地探訪のつもりで来ている。
 宿泊施設だったらしい五重塔や三十三間堂を眺めながら大観音に向かう。かつてはこの宿泊施設と大観音の間をモノレール(遊具扱い)で結んでいたらしい。観音の正面入り口は閉ざされているが、比較的新しいラミネート加工された張り紙に「北海道天徳大観音 拝観時間 土・日曜日祭日 10:00~17:00(法要など特別な場合を除く)」と記されている。何と大観音はまだ公開されているようだ。今日は土曜日だから是非参拝したいが、10時37分の汽車で戻らないと札響の演奏会に間に合わない。残念だが仕方ない。不法侵入だが観音の足元まで入り込む。とても美しい姿をした観音像だ。背中に避難用の螺旋階段を背負っているのもイカしている。ぐるっと眺めて大観音を後にする。

 この日は午後二時から札幌コンサートホールで札響の演奏会。その後レトロスペース坂会館を訪ねる。ネット情報によれば営業時間は日祝を除き十一時から十八時半。しかし入ろうとすると「すみません、四時半で終わりなんです。片付けとかありますんで」とにべもない。時刻は四時五十分。今回のお土産は全部坂ビスケットで間に合わせるつもりだったのだが、まだやっている売店でビスケットを買う気にもならず撤収。(レトロスペース坂会館についての説明は省略)

 翌日はレンタカーを借りる。日産のデイズという軽自動車だが、アイドリングストップ機能が付いていて煩わしい。当初はゆったりしたスケジュールを組んでいたのだが、気が変わって強行軍に変更。まず定山渓温泉へ向かい北海道秘宝館跡を見物。一九八〇年の開業以来、残り少なくなった秘宝館の一つとして営業を続けていたが、二〇〇七年頃から不定期営業となり、二〇一〇年に展示物の盗難により閉館されてしまった施設だ。外の御涙観音こそ健在だが、建物は完全に廃墟と化している。入り口は閉鎖されていなくて中には入れそうだ。でも入るのはやめておこう。
 続いて定山渓温泉街を進み、岩戸観音堂へ向かう。ここは私の好きな洞窟系霊場。百二十メートルのトンネルに三十三体の観音像があるという。本堂に入ると向かって右側に洞窟への入り口があるが、扉は閉ざされており「洞窟拝観禁止のお知らせ 洞窟内は、危険な箇所がありますので安全上の理由により当分の間、拝観を禁止します。定山渓観光協会」と張り紙に書かれている。そっと扉を押してみると鍵はかかっていないようだ。ここも残念だが諦めるしかない。
 肩すかしを食らった気分で次の目的地、佛願寺へ向かう。ここには身の丈四十五メートルの釈迦涅槃像が安置されている。この涅槃像は、かつて函館の恵山モンテローザという施設にあったものだが、恵山モンテローザが倒産して廃墟となっていたところをこの佛願寺が引き取って移設したものだ。拝観したい旨申し出ると親切なおばさんが一人付いてくれて、色々説明してくれる。拝観は無料。お礼に二本百円の長い線香を買ってお供えする。涅槃像は金色だがFRP樹脂製。函館からの移送は幾つかに解体して運んだそうだ。オバサンが付いてくれるのは有り難いが、あまりバシャバシャ写真も撮れない。現在は真面目な宗教施設のようなので、丁重に礼を言って辞去する。
 続いて本日のメインイヴェント、真駒内滝野霊園へ向かう。ここは札幌郊外の大型霊園だが、本土では考えられない広さよりも、異国に迷い込んだかのようなモアイ群が有名だ。正門を入るといきなり左側にモアイ群が現れる。モアイは三十体あるらしいが実に壮観である。モアイをじっくり眺めてから、次に大仏やストーンヘンジへ向かう。まずストーンヘンジへ向かうと何やら工事中で重機が入っており、近づくことが出来ない。一部の石を下ろして何かしているのでストーンヘンジ自体の改修なのだろうか。仕方ないので霊園内をぐるっと回る。墓地は全く同じ墓石が完全な等間隔に並んでいる。個性が無くてつまらない気がするが、北海道ならではの合理的な墓地である。続いて大仏を見ようと遠くに見える大仏に向かうが、こちらも工事しているようで、大仏に向かう道が閉鎖されていて近づけない。クルマを降りて歩けば行けそうな気がするが面倒になってしまい断念。
 ここまで回って時刻は十一時前。帰りの汽車の時刻まで6時間あることを確認し、迷わずレンタカーのナビゲーションに芦別駅と入力。どうしても北海道大観音の体内巡りがしたいのだ。

 道央自動車道から国道三十八号を辿って、昨日来たばかりの北海道大観音へ辿り着いたのは十三時前。しかし、正面の門は相変わらずシャッターが閉じられている。あれはまだ営業していた頃の貼り紙だったのか。ガッカリするが、よく見ると貼り紙が変わっており「本日開館14時~15時」とされている。よかった、二時になれば入れるようだ。参拝に1時間かかるとして札幌まで二時間、五時までにクルマを返せば帰りの船には余裕で間に合う。近くの道の駅で名物と看板の出ていたガタタンラーメン(あんかけの乗ったラーメン)を食べ、セブンイレブンでコーヒーを飲んで時間をつぶす。
 二時を待ちかねて参拝へ。拝観料五百円を払ってエレベーターで二十階まで一気に上がる。大観音の胸の部分で、ベランダのような展望台に出ることが出来る。芦別の町全体が見渡せる素晴らしい展望だ。ここから緩い階段を下りながら階毎に祀られた仏像を順に拝観する仕組みである。楽に上れて展望を楽しめる。年寄りならエレベーターで下りてくることも可能だ。かなり楽しい大観音だ。
 帰ってから調べたところ、北の京芦別の内、大観音だけは石川県の宗教法人天徳育成会が所有運営しており、名称も北海道天徳大観音と改称されているようである。大仏大観音マニアの私の評価として、大きさ、姿の美しさ、設備の充実度、いずれも素晴らしく、多くの人に訪れていただきたい大観音だ。現オーナーには是非頑張っていただいて、他に何も無い土地柄、経営は困難とは思うが、是非この遺産を後世に伝えていただきたいものだ。

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2014年6月 2日 (月)

札響の伊福部昭

札幌交響楽団第五六九回定期演奏会~伊福部昭生誕一〇〇年記念~

二〇一四年五月三十一日(土)十四時 札幌コンサートホールKitara

伊福部昭/日本狂詩曲(一九三五)
伊福部昭/ヴァイオリン協奏曲第二番(一九七八)
伊福部昭/土俗的三連画(一九三七)
伊福部昭/シンフォニア・タプカーラ(一九五四/一九七九改訂)

ヴァイオリン/加藤知子
管絃楽/札幌交響楽団
指揮/高関健

 二〇一四年五月三十一日は中学の恩師○山敏夫先生の六十六歳の誕生日でもあるが、世間的には伊福部昭の百歳の誕生日である。なので今年はあちこちで伊福部生誕百年の記念演奏会や、記念演奏が行われているが、その中でもクライマックスと言えるのが、誕生日当日に地元北海道唯一のプロオーケストラである札幌交響楽団が定期演奏会で行うオール伊福部プログラムだろう。
 曲目も演奏者も記念演奏会に相応しく、伊福部ファンにとっては親が危篤にでもならない限り駆けつけざるを得ない。指揮者が高関氏というのも泣かせる。同じ日に東京交響楽団もオール伊福部プロをやっているが、指揮者が井上道義だというので全く対抗馬にならなかった(札響は三〇日と二日公演なので掛け持ちも可能だった)が、指揮者急病で代演が大植英次だという。本当にチケットを買わなくて良かった。どうしてこんな伊福部の音楽と相容れないキャスティングをするのだろうか。

 一曲目の日本狂詩曲が始まった途端、わざわざ足を運んだ甲斐があったことを確信した。ヴィオラソロと伴奏の絶妙なテンポとバランス。期待通り、否期待以上である。日本狂詩曲と言えば、山田一雄が新星日本交響楽団を指揮した二種の演奏が印象深い。一九八〇年の録音は、作曲から四十五年目の舞台初演ライヴ。指揮者もオーケストラも気負いではち切れそうな演奏だ。ホンダラ行進曲のハナ肇のように、拳を握りしめ地団駄を踏んで、鼻息荒いのも臆せず攻めに攻めた演奏。余りに熱狂的な演奏だった故に客が約一名発狂するという壮絶な演奏だ。そして、一九九〇年の演奏は、同じ曲同じ指揮者、同じオーケストラとは到底思えない、老大家の遊びの境地のような演奏。力は抜けており、スケールが大きく、世界が拡散していく感じの演奏。こちらは実演でも聴いたが、八〇年盤で予習していった私は、余りの違いにノックアウトされたのを覚えている。この二つの個性的演奏の間にあるのが広上淳一と日本フィルのスタジオ録音だ。このキングレコードによる一連の録音は作曲者監修の下で行われた基準となる演奏で、何度聴いても飽きない、手本とすべき演奏である。
 さて、高関の日本狂詩曲は、広上の演奏を崩さずに拡げた感じの演奏。テンポは全体に遅めで、実に丁寧な表情付けを行っていく。第一楽章は騒がず丁寧に進めていき、第二楽章はしっかりオーケストラを鳴らすが決して雑にならない。この辺は高関の実力である。コーダへの追い込みもテンポを煽るのではなく、一歩一歩踏みしめるように全ての音符を丁寧に鳴らす演奏。数え切れないくらい聴き込んでいた曲なのに、初めてこの曲の本質を知った気がして心が震えた。ヤマカズも広上もどうでも良くなる大名演。この一曲だけでも札幌まで来てお釣りが来る大収穫であった。

 ヴァイオリン協奏曲第二番は初演の録音しか聴いたことがないので比較対象がしづらいが、一言で言えば加藤知子のヴァイオリンは平板で、曲の本質に届いていないと思う。伊福部の曲なのだから、もっとゴリゴリ弾いて思い切った表現をしなければ意味が無いと思う。オーケストラも独奏に合わせたのか大人しい演奏。

 土俗的三連画は絃楽器を重ねず楽譜通り十四名での演奏。大編成オーケストラから室内オーケストラまで過不足無く響く札幌コンサートホールの音響に感心する。奇を衒うようなことはしていないが、この曲の持つ室内楽的な楽しさを目一杯表現した演奏。ティンパニを客席から見やすい下手側に配置したのは、胴を撥の尻で叩く指定が見易いようにという配慮だろうか。素晴らしい演奏で拍手がやまない中、何回目かのカーテンコールで高関は奏者に引き上げるように指示し、奏者達と一緒に引っ込んでいったが、このような室内楽的な曲の場合、主役は指揮者ではなく奏者ですよというアピールで、とても好感が持てた。

 最後のシンフォニアタプカーラも、日本狂詩曲同様の地に足が着きつつ、より表現を深めていく演奏。最初の序奏部分を無意味に遅くすることなく、きっちり歌わせていく。主部に入っても一音一音を大事に進めていく。私はこの曲が本当に好きなのだが、このように安心して聴ける演奏になかなか巡り会えない。高関の指揮の素晴らしさは、オレはこうやりたいとか、こう出来るとかでなく、この曲はこんな風に書いてあるんですよという、深い譜読みと分析による表現であろう。浅はかな指揮者がこの曲を振ると、遅い部分は異様に遅く、速い部分は無闇にテンポを煽って、その場の客には受けるものの、CDで聴く価値も無い演奏をするが、高関はそんなチンピラとは次元が違う。ひたすら楽譜と向き合って、誠実に演奏を進めていく。第二楽章が終わった時点で、第三楽章が日本狂詩曲同様の一歩一歩踏みしめ系の演奏だったら、座りしょんべんして馬鹿になっちゃうような超名演になるのでは無いかと期待した。残念ながらその期待は裏切られ、第三楽章のテンポは速くも無く遅くも無く中庸なテンポ。だのに、オケの鳴りが悪く最後は若干消化不良な感じであった。二日公演の最後でオーケストラがバテたのだろうか。私は常々、この曲の最後は十六分音符ではしゃいでいる木管楽器の音が聴き取れなければならず、テンポは煽らず全部の音符を鳴らすように演奏しなければならないと思っている。高関のテンポはプロオケなら鳴らせるテンポだったが、札響の管楽器は全然鳴っておらず残念だった。

 最後のカーテンコールで拍手に応える高関氏が、譜面台の上のスコアに手を置いて作曲者への敬意を示す姿を見て、本当にこの演奏会を聴くことが出来て良かったと思った。滅多に思わないことだが、この演奏会を企画し、指揮者に高関氏をキャスティングしてくれた札幌交響楽団に心から感謝したい。

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