さよならかめりあ丸
かめりあ丸 東海汽船 貨客船 三八三七総噸
東海汽船の貨客船かめりあ丸が、六月八日の神津島発東京行き航海を持って、伊豆諸島航路から引退した。一九八六年の就航から二十八年。本当に長い間お疲れさまでしたと言いたい。
デビュー当時何だか頼りなかった(理由は後述)かめりあ丸だが、気がつけば二十八年。名船すとれちあ丸や黒潮丸の二十四年、初代さるびあ丸の十九年を遙かに超えて、戦後自社製造船の中では最も長い船歴となったのは、景気の冷え込みなどで新造船をなかなか作れなかった事情もあるだろうが、この船が使い勝手が良かったということだと思う。かめりあ丸以降に建造されたかとれあ丸、はまゆう丸などが比較的早い時期に(在来型純客船の需要低下という航路事情はあるが)引退していった中で生き残ったということは、高性能ではないが使いやすかった船、そんなかめりあ丸だったと思う。
私の船好きは現在第三期に当たっている。第一期は船に目覚めた五~六歳の頃。父親の伊豆大島赴任という判りやすいきっかけから。第二期は高校生の頃。その後クルマの免許を取ったり鉄道乗りつぶしに凝った後に船に戻ってきて現在第三期。第二期と第三期にまたがって活躍している船はこのかめりあ丸と、神新汽船のあぜりあ丸だけである。
一九八〇年代後半、関係者にとっては夢のようだった離島ブームは去ったものの、夏の離島航路需要はまだまだ華やかだった頃、かめりあ丸は建造された。全盛期には二年ごとに新造船が就航していた東海汽船だが、今回は八年ぶりで久々の新造船だ。八年先輩のすとれちあ丸とは、ほぼ同じ規模の貨客船である。
かめりあ丸(一九八六年三月竣工)三七五一総噸(後に三八三七総噸)
全長一〇三m、全幅十五、〇m、十七、五ノット、コンテナ二十五個、アンチローリングタンク装備
すとれちあ丸(一九八七年4月竣工)三七〇八総噸
全長一一一m、全幅一五、二m、二〇、三ノット、コンテナ二十六個(+十六個)、フィンスタビライザー装備
八年も新しい船なのに、全長では八メートル短く、巡航速度は三ノット遅い。コンテナ積載数は船倉ではほぼ同じだが、すとれちあ丸は後部にデリックが付いていて甲板にコンテナを積める。何よりフィンスタビライザーがアンチローリングタンクに戻ってしまったのは大きな後退と感じられた。東海汽船はパンフレットなどで新造のかめりあ丸を三八〇〇トン級、すとれちあ丸を三七〇〇トン級と表記することで、かめりあ丸のフラッグシップ色をアピールしたが、スペック上明らかに劣っていることは明らかだった。これは、すとれちあ丸が三八航路(東京~三宅島~八丈島)、かめりあ丸が片航路(東京~大島~利島~新島~式根島~神津島)への就航を前提として建造されているからである。従来の東海汽船船隊の巡航速度(かとれあ丸、ふりいじあ丸、さるびあ丸の十七ノット)では、距離の長い三八航路のデイリー運航は全く余裕が無い。そこで、船足を速くし、貨物輸送の需要も多いのでコンテナ積載量を多く、黒潮を横切る過酷な海域を行くので横揺れ防止のフィンスタビライザーを搭載したのがすとれちあ丸。片航路前提なので、従来の客船にコンテナ積載機能を加えただけのかめりあ丸という設計思想である。航海資格はすとれちあ丸が小笠原にも行ける近海資格、かめりあ丸は八丈島には行けない沿海資格である。新幹線車両で言えば五〇〇系と七〇〇系の関係に似ている。
すぐにかめりあ丸はフィンスタビライザーを搭載し、近海資格となる改造を受けることになる。この辺の経緯は知らないが、素人考えに三八航路のドック代船が必要なことぐらい判っているのだから、最初から二隻の貨客船を同じスペックにしておけばよいものをと思ったものだ。これは後に現さるびあ丸を建造した時も沿海資格で建造し、すとれちあ丸引退の時に近海資格に改造している。東海汽船という会社は長期的な計画を立てるのが苦手なようである。
一九九二年に現さるびあ丸が就航し、東京湾納涼船の役目を譲る。二〇〇二年にすとれちあ丸が引退し再び貨客船二隻体勢となると、通常は片航路、五月の連休と納涼船運航期間は三八航路という運用になる。そのため三八航路は鈍足のかめりあ丸を考慮したダイヤを組んでおり、それでも東京着がさるびあ丸より二〇分遅く、時刻を見れば配船が判るという、東海汽船ファンだけには有り難い状態となっていた。
先輩のすとれちあ丸は昭和天皇のお召し船となったり、定期航路の三宅島で座礁事故を起こしたり。一九八六年の大島噴火、二〇〇〇年の三宅島噴火では島民の避難に活躍したりと、波瀾万丈の船歴だった。それに引き替えかめりあ丸は、ウィキペディアの記述が正しいなら一九八六年の大島噴火でも避難輸送に加わっていない。特筆するような活躍は無かったけれど、地道に乗客と貨物を運び続けて二十八年。そんなかめりあ丸の最終航海にせっかくだから乗ってみることにした。
土日休んで式根島か神津島で一泊したかったのだが、土曜日が休めず、残業後に銭湯に寄って夜行日帰りの強行軍となった。生憎の雨で甲板にいても水しぶきがかかるので、横浜を出るとすぐ就寝。
翌朝は目が覚めるような快晴。大島岡田港からは伊豆半島、房総半島、富士山がすぐ近くに見える。大島を出ると利島、鵜渡根島から御蔵島までが一望出来る。降雨後で空気が澄んでいて心地よい。海上は時折うねりが入るものの、ほぼべた凪。勿論全島就航である。目出度い。
下り便は淡々と発着するのかと思いきや、式根島は太鼓が並んで既にお祭り気分。神津島前浜港で一旦下船する。かめりあ丸三役(船長、機関長、事務長)を迎えてのセレモニーを見学し、登り便に乗船する。式根島野伏港は太鼓にバンド、ミス式根島、そしてクサヤマンというゆるい着ぐるみが駆け回っていて賑やかだ。新島黒根港は整然とした島太鼓が見事だが、船長の答辞にかぶってしまい段取りが悪い。式根島から新島の間では村営船にしきと反航、新島を出ると神新汽船あぜりあ丸と反航、いずれも汽笛でお別れの挨拶をする。利島は太鼓はないものの、元気な島民はみんな集まったような騒ぎ。特に段取りは無く、てんでにかめりあ丸を見送っている。かえって一番温かで心に残る見送りだ。宮塚山に長声三発がこだまする。いずれの島も紙テープを盛大に使った見送り。このような場合なので海が汚れるとか野暮は言いっこなし。
ここまでは素朴な生活航路のお別れだったが、大島はちと様相が違う。七日が伊豆大島トライアスロン大会だということは承知しており、混むことは予想していた。しかし予想以上の人出で、Aデッキはあっという間に一杯になる。何でも荒天のため大会は中止になったらしく体力の余っている連中は、Aデッキ一面に毛布を敷いて酒盛りが始まる。御神火太鼓に見送られて元町港を離れると、沖には橘丸が待機しており、乳ヶ崎沖まで並走追尾。新旧の両船が並走するという粋な演出である。岡田港に接岸訓練に行く橘丸と別れると、今度は左舷側にイルカの群れがいる。小魚の群れを追っているのだろうが、まるでかめりあ丸を見送るように、ジャンプしたりしている。もしかすると東海汽船が雇ったイルカかも知れない。当然船上は大騒ぎになり、Aデッキの客は全員左舷に集まって船が若干傾ぐ。十数年前の「遊覧船ヌーディストビーチで転覆」という馬鹿ニュースを思い出す。
最終航海ということで、かめりあ丸は最上階の船橋甲板を解放。もしかすると納涼船以来二十二年ぶりの解放かも知れない。出来れば船橋下のベランダ部分やFデッキ旧娯楽室も解放して欲しかったが、それは叶わなかった。また、式根島~神津島間では式根島郵便局が船内に出張してきて、かめりあ丸切手シートを販売。竹芝の売店ではかめりあ丸のピンバッジを販売するなど、グッズも色々作られてついつい財布の紐が緩む。
追い上げてきた僚船のジェットフォイルに虹、友、夢の順に追い抜かれ、横浜港では元関西汽船くれない丸のロイヤルウイングを追い抜く。横浜からは「せめて最後だけでも」と思ったのか、尋常でない人数の横浜~東京区間乗船者を乗せて、いよいよ東京へラストラン。船の科学科沖からいつも通り夜空のトランペットが流れて20時竹芝桟橋に着岸。無事に二十八年の営業航海を終える。船長、機関長、事務長の三人に見送られてかめりあ丸を後にする。
高校生の頃から数え切れないほど乗ったかめりあ丸。彼女の引退で伊豆諸島航路の昭和が終わる気がする。今後は海外売船になるようだが、速く第二の人生の地が決まって欲しいものだ。
かめりあ丸、ありがとう、そしてさようなら。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント