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2014年6月 2日 (月)

札響の伊福部昭

札幌交響楽団第五六九回定期演奏会~伊福部昭生誕一〇〇年記念~

二〇一四年五月三十一日(土)十四時 札幌コンサートホールKitara

伊福部昭/日本狂詩曲(一九三五)
伊福部昭/ヴァイオリン協奏曲第二番(一九七八)
伊福部昭/土俗的三連画(一九三七)
伊福部昭/シンフォニア・タプカーラ(一九五四/一九七九改訂)

ヴァイオリン/加藤知子
管絃楽/札幌交響楽団
指揮/高関健

 二〇一四年五月三十一日は中学の恩師○山敏夫先生の六十六歳の誕生日でもあるが、世間的には伊福部昭の百歳の誕生日である。なので今年はあちこちで伊福部生誕百年の記念演奏会や、記念演奏が行われているが、その中でもクライマックスと言えるのが、誕生日当日に地元北海道唯一のプロオーケストラである札幌交響楽団が定期演奏会で行うオール伊福部プログラムだろう。
 曲目も演奏者も記念演奏会に相応しく、伊福部ファンにとっては親が危篤にでもならない限り駆けつけざるを得ない。指揮者が高関氏というのも泣かせる。同じ日に東京交響楽団もオール伊福部プロをやっているが、指揮者が井上道義だというので全く対抗馬にならなかった(札響は三〇日と二日公演なので掛け持ちも可能だった)が、指揮者急病で代演が大植英次だという。本当にチケットを買わなくて良かった。どうしてこんな伊福部の音楽と相容れないキャスティングをするのだろうか。

 一曲目の日本狂詩曲が始まった途端、わざわざ足を運んだ甲斐があったことを確信した。ヴィオラソロと伴奏の絶妙なテンポとバランス。期待通り、否期待以上である。日本狂詩曲と言えば、山田一雄が新星日本交響楽団を指揮した二種の演奏が印象深い。一九八〇年の録音は、作曲から四十五年目の舞台初演ライヴ。指揮者もオーケストラも気負いではち切れそうな演奏だ。ホンダラ行進曲のハナ肇のように、拳を握りしめ地団駄を踏んで、鼻息荒いのも臆せず攻めに攻めた演奏。余りに熱狂的な演奏だった故に客が約一名発狂するという壮絶な演奏だ。そして、一九九〇年の演奏は、同じ曲同じ指揮者、同じオーケストラとは到底思えない、老大家の遊びの境地のような演奏。力は抜けており、スケールが大きく、世界が拡散していく感じの演奏。こちらは実演でも聴いたが、八〇年盤で予習していった私は、余りの違いにノックアウトされたのを覚えている。この二つの個性的演奏の間にあるのが広上淳一と日本フィルのスタジオ録音だ。このキングレコードによる一連の録音は作曲者監修の下で行われた基準となる演奏で、何度聴いても飽きない、手本とすべき演奏である。
 さて、高関の日本狂詩曲は、広上の演奏を崩さずに拡げた感じの演奏。テンポは全体に遅めで、実に丁寧な表情付けを行っていく。第一楽章は騒がず丁寧に進めていき、第二楽章はしっかりオーケストラを鳴らすが決して雑にならない。この辺は高関の実力である。コーダへの追い込みもテンポを煽るのではなく、一歩一歩踏みしめるように全ての音符を丁寧に鳴らす演奏。数え切れないくらい聴き込んでいた曲なのに、初めてこの曲の本質を知った気がして心が震えた。ヤマカズも広上もどうでも良くなる大名演。この一曲だけでも札幌まで来てお釣りが来る大収穫であった。

 ヴァイオリン協奏曲第二番は初演の録音しか聴いたことがないので比較対象がしづらいが、一言で言えば加藤知子のヴァイオリンは平板で、曲の本質に届いていないと思う。伊福部の曲なのだから、もっとゴリゴリ弾いて思い切った表現をしなければ意味が無いと思う。オーケストラも独奏に合わせたのか大人しい演奏。

 土俗的三連画は絃楽器を重ねず楽譜通り十四名での演奏。大編成オーケストラから室内オーケストラまで過不足無く響く札幌コンサートホールの音響に感心する。奇を衒うようなことはしていないが、この曲の持つ室内楽的な楽しさを目一杯表現した演奏。ティンパニを客席から見やすい下手側に配置したのは、胴を撥の尻で叩く指定が見易いようにという配慮だろうか。素晴らしい演奏で拍手がやまない中、何回目かのカーテンコールで高関は奏者に引き上げるように指示し、奏者達と一緒に引っ込んでいったが、このような室内楽的な曲の場合、主役は指揮者ではなく奏者ですよというアピールで、とても好感が持てた。

 最後のシンフォニアタプカーラも、日本狂詩曲同様の地に足が着きつつ、より表現を深めていく演奏。最初の序奏部分を無意味に遅くすることなく、きっちり歌わせていく。主部に入っても一音一音を大事に進めていく。私はこの曲が本当に好きなのだが、このように安心して聴ける演奏になかなか巡り会えない。高関の指揮の素晴らしさは、オレはこうやりたいとか、こう出来るとかでなく、この曲はこんな風に書いてあるんですよという、深い譜読みと分析による表現であろう。浅はかな指揮者がこの曲を振ると、遅い部分は異様に遅く、速い部分は無闇にテンポを煽って、その場の客には受けるものの、CDで聴く価値も無い演奏をするが、高関はそんなチンピラとは次元が違う。ひたすら楽譜と向き合って、誠実に演奏を進めていく。第二楽章が終わった時点で、第三楽章が日本狂詩曲同様の一歩一歩踏みしめ系の演奏だったら、座りしょんべんして馬鹿になっちゃうような超名演になるのでは無いかと期待した。残念ながらその期待は裏切られ、第三楽章のテンポは速くも無く遅くも無く中庸なテンポ。だのに、オケの鳴りが悪く最後は若干消化不良な感じであった。二日公演の最後でオーケストラがバテたのだろうか。私は常々、この曲の最後は十六分音符ではしゃいでいる木管楽器の音が聴き取れなければならず、テンポは煽らず全部の音符を鳴らすように演奏しなければならないと思っている。高関のテンポはプロオケなら鳴らせるテンポだったが、札響の管楽器は全然鳴っておらず残念だった。

 最後のカーテンコールで拍手に応える高関氏が、譜面台の上のスコアに手を置いて作曲者への敬意を示す姿を見て、本当にこの演奏会を聴くことが出来て良かったと思った。滅多に思わないことだが、この演奏会を企画し、指揮者に高関氏をキャスティングしてくれた札幌交響楽団に心から感謝したい。

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