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2014年7月22日 (火)

インバルのマーラー/交響曲第一〇番

都響スペシャル
二〇一四年七月二十一日(月祝) サントリーホール

マーラー/交響曲第一〇番嬰ヘ長調(クック版)

管絃楽/東京都交響楽団
指揮/エリアフ・インバル

 インバル都響による新マーラーツィクルスの番外編、デリック・クック補筆による交響曲第一〇番を聴く。プログラム冊子に寄せられたインバルの文によればクックのの死後に弟子達が手を加えた第三稿第二版をベースにし、一部は第三稿第一版に戻しているとのこと。

 最初に元も子もない事を書かせてもらえば、どうして第一楽章のアダージョだけと大地の歌というプログラムにしてくれなかったのか。インバルは前からクック版肯定派だから仕方ないのだが、どうしても私には第一〇番の第二楽章以降というのは蛇足という感じを払拭することが出来ないのだ。

 第一楽章は素晴らしい。ただし、マーラーツィクルス本編の時より幾分リラックスムードに感じられるのは番外編だからだろうか。インバルの指揮は一~九番と変わらず、推進力のある音楽作りだが肝心な所のタメは十分に効かせる、正に老練の棒である。マーラーの晩年の人生というのは、未亡人が好き勝手に脚色して伝えたせいで、何だか不幸で不安な毎日だったような印象を持ってしまうが、この一〇番の第一楽章を書いている頃は指揮者としても作曲家としても栄光の頂点だったはずで、この楽章も部分的に魂の叫びのような部分もあるが、基本は穏やかな悟りの境地のような音楽であり、第九番から更に達観した境地のような気がする。インバル翁の演奏はそんな境地を淡々と表現しており、変に力が入ったりしていない所がすばらしい。
 第二楽章以降は私のように猜疑心の強い人間には素直に聴くことが出来ない。何処までがマーラーの創作で、どこからがクックの作品なのか。クックの作った部分で感動なんかするもんかというひねくれた根性で聴くから、本当はマーラーの思い通りだったかも知れない部分も素直に感動出来ないのだ。クックの復元作業は真摯な仕事で素晴らしいものだと思う。マーラーを利用して自分を売り込むような了見は持たず、出版時にもマーラーが書いた音符と自分が補筆した音符を区別するなど、徹底的にマーラーの意図を尊重しようという姿勢には頭が下がる。しかし、どうしても百パーセント納得という気分になれないのである。
 中間の三つの楽章(スケルツォと煉獄)はマーラーが書いてもこんな程度だろうと思う。しかし、第五楽章だけはどうしても物足りない気がする。率直に言えば駄作という気がするのだ。恐らく第七番の終楽章同様、これが全部マーラー自身が書いていたとしても、同じような感想になるのかも知れない。第一楽章から順に書き進めたとすれば、第一楽章と第五楽章を書いている時期では、マーラーの精神状態が相当異なっているはずなので、マーラーの一番暗く絶望的な心が音楽に反映されてしまっているのかも知れない。部分的にいいなと思う部分は多いのだが、楽章全体を通した重苦しさが、聴き終えた時に何やら後悔の感覚が残るのだ。判りやすく言えば、先日実際に体験した、同級生の飲み会で途中から一人が妻(これも同級生)が不貞をしていて、本人は開き直って居座り、向こうの親もかばって云々みたいな話を延々とされて、うんざりして帰った晩のような気分になるのだ。

 インバルと都響は大変好演だったと思うのだが、演奏がいい分曲に対する疑問が浮き彫りになってしまった感じがする。そもそも私はクック版を実演ではほとんど聴いたことがなかったが、改めて全曲をを聴いてみて、やはりこの曲は全集版の第一楽章だけでいいと感じた。マーラーツィクルスの最後は大地の歌で締めて欲しかったというのが偽らざる気持ちである。都響は来年創立五〇周年なので、番外編その二としてやってくれないだろうか。

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コメント

だったらきかなければいいのに、

投稿: | 2015年9月 1日 (火) 21時11分

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