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2014年8月16日 (土)

桜田門外の変と私

 三面川に釣りに行ったついでに、関川村の関鉄之介就縛の地を見に行ってみた。
 吉村昭の著作は殆ど読んでいるし、映画「桜田門外ノ変」も観た。桜田門外の変の現場指導者であった関鉄之介の足取りの中でも、湯沢温泉の田屋での捕縛場面は印象深い。更に、個人的に桜田門外の変の水戸藩士達に思い入れがあるのだ。

 関鉄之介が捕縛された場所は新潟県岩船郡関川村の湯沢温泉。関川温泉郷という小さな温泉が点在する中の一つで、一軒の共同浴場と数軒の小さな旅館があるだけの静かな温泉街だ。松岳寺という寺の前に記念碑が建てられているが、実際に鉄之介が捕らえられた田屋旅館は温泉街のどん詰まり、湯蔵川の小さな流れを渡った向こうにあった。現在は普通の民家になっており、そのお宅専用の橋を渡った先の桜の木の下に、「関鉄之介就縛の処」と書かれた杭が立っている。碑の隣の説明版にかつての田屋の写真があり、木造三階建てと思しき建物と、人一人やっと渡れるくらいの木橋が写っているが、現在は小綺麗な普通のお宅なので、川のこちらから眺めるに留め、橋を渡ることは遠慮した。
 旅館街を下っていくと小さな共同浴場がある。入湯料二百円を払って入ってみると、三間四方くらいの浴室に二畳ほどの浴槽がある簡素な造り。現在は三本の井戸から動力揚湯しているが、源泉温度四十七度の温泉が掛け流しになっている。捕縛直前の鉄之介は温泉につかって養生しながら、近郷の若者に軍書を読み聞かせていたという。他に誰もいない共同浴場の湯につかりながら、追われる身の鉄之介がどのような気持ちで、この静かな温泉に潜んでいたのか、思いを巡らせた。

 さて、ここから話はそれて、私と桜田門外の変という話になる。

 私の高祖父(父の父の母の父)は池野駒太郎という横浜の商人であった。妻であった高祖母亀井志やうからの伝承によれば、元は水戸藩の家老の息子であり、安政の大獄の時に水戸藩の檄派藩士と共に江戸に上り井伊大老暗殺に参加したが、当日になって怖じ気づいて逃亡したのだという。よって池野駒太郎という名前も変名で、本当の名前ではなないらしい。という話が我が家では語り継がれている。
 ただ、口伝だけではなく若干の資料が残っており、作成時期不明の仏壇の過去帳には信解院道仙日駒信士という戒名と明治三十五(一九〇二)年四月二十七日という没年月日が記載されており、墓誌(台帳)には分骨されて納められたという記載がある。一方、籍は入っていなかったらしく、戸籍を調べても池野駒太郎の名前は出てこない。慶応三(一八六七)年生まれの志やうは、明治二十六(一八九三)年に長男幸太郎、二十八(一八九五)年に長女はつ、三十(一八九七)年に次男幸次郎、三十三(一九〇〇)年に次女こまを出産しているが、戸籍上では五十六歳になる大正十二年になって初めて結婚したことになっている。

 桜田門外の変は安政七年(一八六〇年)三月に起こっている。池野駒太郎がこの時相当若くて十八歳だったと仮定すると、生まれは一八四二年、一八六七年生まれの高祖母とは二十五歳の年齢差があり、長男が生まれた時が五十歳、亡くなったのが六十歳となる。そして長男が五歳で死亡した明治三十一(一八九八)年には、志やうは既に三人の子供を抱えて東京は四谷鮫河橋の貧民窟に居を移している。もっとも、志やうは長男が死亡した時初めて戸籍を動かして、兄の戸籍からの分家と三人の子供の出生と長男の死亡を一気に届け出ているので、それ以前の動きは恐らくその時点での記憶によるものだろう。ということは、駒太郎と志やうは明治二十五年頃から長くても三十年頃までの関係で、私の曾祖母にあたる長女はつは駒太郎の子であると推測出来るが、次男幸次郎は微妙、三十三年生まれの次女こまの父親は誰なのか判らない。この三人の子供を抱えた高祖母が四谷鮫河橋に住み着いてからの話は、あまりに長くなるので別の機会に譲りたい。

 さて、吉村昭の「桜田門外ノ変」を読んでも、襲撃当日になって逃亡した藩士というのは見当たらないが、ここまでの情報を繋ぎ合わせると次のような粗筋が出来上がる。

 水戸藩の檄派に属する若い藩士だった池野駒太郎は、藩内で沸き上がる井伊討伐の熱に浮かれて脱藩し江戸に出る。どの程度桜田門外の変に係わったかは判らないが、途中から実行メンバーから外れていく。桜田門外の変が起こり水戸浪人の探索が厳しくなると、水戸藩士達に拳銃を提供したといわれる横浜の中居屋重兵衛を頼って身を寄せ、変名を使って従業員として住み着く。翌年重兵衛が死んで中居屋が廃業すると、中居屋で覚えた仕事を頼りに他の商店の従業員となり、維新以降生糸の輸出で成長を続ける商社で実績を積み上げていく。明治二十年代、年齢も五十近くになり、生糸の買い付けで訪れた長野県の諏訪湖周辺で製糸女工だった志やうと知り合い、横浜へ連れて帰り妾として囲う。二児(三児)をもうけたものの数年で離別し、明治三十五年に六十歳以上の歳で死去。かなり立派な戒名がついているので、最終的にはそこそこの商店の主人となっており、志やうは何人か囲った妾の内の一人だったのではないだろうか。死後分骨されているところを見ると、子供もいたために、正式な妾として扱われていたのだろう。

 このように、自分のルーツの中に幕末の水戸藩で檄派に属していた人物がいるので、桜田門外の変については水戸浪士、そして東京の人間なので薩長政府よりは江戸幕府に共感を覚えるのである。

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