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2024年1月 3日 (水)

市子

市子(二〇二三年 配給:ハピネットファントム・スタジオ 監督:戸田彬弘)

 地元の映画館の上映予告を見て、ちょっと面白そうだなあと思っていた映画。公開前にTBSラジオの「こねくと」で町山智浩が「今年の邦画でベスト」と言っていたので公開二日目に鑑賞。時系列が複雑かつ、最後まで説明しない構成のため、鑑賞後色々な謎解きと推測が頭を離れず、一週間後にもう一度鑑賞。生まれて初めて映画のパンフレットを買って、市子の年表を見て答え合わせをする。但し、答え合わせをした上でもう一度確認したい場面も多く、もしかするともう一度見に行くかも知れない。間違いなくDVDなどのパッケージになったら購入すると思う。
 予備知識無しで観て、さほど泣ける場面も、笑える場面も、スリリングな場面も無い。だけど観終わって色々考えると、だんだん辻褄が合ってくる。そしてもう一度観直すと、あらゆる伏線が繋がってきて、ああなるほどと合点がいく一方で、主人公に対する喜怒哀楽などで分類できない不思議な感情が生じる。生まれてこの方、映画を見たあとに何週間もその映画のことを考えるなどという体験はしたことがなかった。
 観終って豊かな気持ちや、楽しい気持ちになる映画ではない。むしろ重い気持ちにしかなれない映画だ。サスペンスとして考えれば筋書きに若干無理な部分もあるが、それを超えた素晴らしい脚本、そして役者達の素晴らしい演技、私の中の映画ベストスリーに入る映画だ。
 ただひとつ、どうしても違和感を感じた点がある。音響である。
 建物の中で二人の人間が対話する場面が大半のこの映画で、カメラのアングルが切り替わるたびに、音場が入れ替わるのだ。画面に写っている人物の声が前から、それに応える相手の声がサラウンドで背後から聞こえる。画面が切り替わると逆になるのだ。映画館というある程度広い空間でこれをやられると、前後の人物が目まぐるしく入れ替わるので、台詞に集中できないだけでなく、船酔いしそうになってくる。このような映画でサラウンド音響を駆使するのは邪魔でしかない。
 最終的には監督の責任なのだが、日本映画の音響のレヴェルがいまだこの程度で、折角のいい映画にケチを付けているのが残念でならない。DVD化されて購入したら、モノラルの片耳イヤホンで聞いてやろうと思う。恐らく何一つ問題はないどころか、より台詞に集中できるはずだ。ただし、エンドロールの部分だけは両耳イヤホンでしっかり聴いたほうがいいと思う。

(追記)
二〇二四年六月十一日新文芸坐(池袋)

 三月から配信が始まったが、七月にDVDが発売されるようなので、それが出たら観直そうと思っていたのだが、池袋の新文芸坐で上映していたので、スクリーンでもう一度観直してみた。
 一回目と二回目を観た立川キノシネマに比べると新文芸坐は箱が大きいので、音響についての違和感は増幅した。長谷川となつみが対峙する屋外(漁港)の場面まで音場が前後に入れ替わるのは違和感しかなかった。
 映画自体の感想は、本当によく作り込まれた映画だと改めて思った一方、市子に感じる思いが観直す度に気の毒から怖いに振れていくのを感じる。出生や置かれた環境の不幸さに最初は目を奪われて同情を禁じ得ないのだが、次第に市子という人間が身に着けてきた生き方に恐怖を感じるようになる。ケーキ屋の場面で、特にそれを強く感じ、以降の市子はサイコパスにしか見えなくなってしまった。
 この映画が一回観ただけでは理解しにくい大きな理由が、特に映画の前半では時空がコロコロ入れ替わるからなのだが、最初の方で後藤刑事が示す「一九八七年生まれ」というところから計算して、それぞれの場面を「市子が〇歳の夏」と勘定して観ると時間軸が判りやすいと思う。そう、この映画はほとんどの場面が夏の描写である。蝉の声、汗、青空、夕立、ガリガリ君、花火、夏祭り。転々と夏の場面がつなぎ合わされていき、大きな二つの事件が起こるのは、実は同じ二〇〇八年の夏であることが、三回目にして理解できた。でも、時間軸に沿って場面を並び替えて観たとしても、流れは把握しやすくなっても面白くないのだろうなあ。

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