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2024年5月13日 (月)

中央線脇の忠魂碑

中央線脇の忠魂碑

 数年前に中央線の電車に乗って甲府方面に向かった時、線路脇に何やら石碑が立っているのに気がついた。そして、先日久しぶりに中央東線の電車に乗ったので、あの石碑がどこにあったのか確認した。相模湖駅を出て四つ目のトンネルを出て、五つ目のトンネルに入る直前の右側だ。ネットで調べると中央下り線のトンネルは、相模湖(旧与瀬)駅を出ると、一、与瀬トンネル、二、横道第一トンネル、三、横道第二トンネル、四、橋沢トンネル、五、天屋トンネル、六、吉野トンネル、七、藤野トンネルの順で、その次が藤野駅(一九四三年開業)なので、橋沢トンネルと天屋トンネルの間。地図で見ると相模原市与瀬と吉野の境界付近。相模湖の釣り師が天水ワンドと呼ぶ入江に注ぐ沢に掛かった橋梁の脇辺りだ。
 寝坊して何をするにも中途半端になった休日、暇潰しに現地に行ってみる。国道二〇号を下っていき、岬にの先に相模湖ローヤルホテル(廃墟)のあるトンネルを抜けた先。日常の絶景ポイントである新旧の巨大ワッフル護岸の切れ目が件の石碑の辺りである。国道脇から入り込むが、道のようなものはない。ただ、少し進むと沢沿いの護岸の上に踏み跡があり、斜面には工事現場のようなメッシュ床の歩廊が設置されている。少し進むと線路に突き当たるが、線路の向こうに私が探していた石碑が見える。そして、工事現場のような階段がトンネルの坑門の上に続いている。コンクリートの坑門の上を通って線路の反対側に出ると、奥の方に煉瓦積みの旧坑門の擁壁が見える。坑口を伸ばすことで土砂崩れなどの影響を受けにくいように改良工事をしているようだ。
 線路を超えて辿り着いた石碑は、周辺をコンクリートで固められて綺麗に整備されている。比較的近年整備されたようだ。建築足場のような通路は、その時に設置されたのかもしれない。
 石碑の高さは一メートル五〇センチ程。線路に向かった表面には「忠魂碑」と大きく書かれている。戦没者の慰霊碑などは、鎮守の境内などに建てられることが多いので、此処で何かが起こった事を伝える碑であろうと推測出来る。そして裏に回ると、比較的簡潔な文章が記されている。大して長くないので全文を書き写してきた。

昭和三年七月三十一日洪雨出水橋澤隧道西口土砂俄然
崩壊行通杜絕焉欲慰防水工事作業殉職者之幽魂樹之矣

柗島堅三   今村清重  石井源一
為我井佐一郎 大野左ヱ門 中里壬子次
設樂仲次郎  溝口喜重  榎本重吉
松岡森藏   古屋政吉

昭和四年七月三十一日有志建之

 建立後百年近いのに石の材質が良いのか風化は進んでおらず、碑文は明瞭だ。戦前の漢文調の文章なので細かいところまで読み下せないが、「昭和三年七月三十一日に豪雨があって、橋沢トンネルの西口で土砂崩れが発生し交通途絶となった。復旧作業の殉職者(二次災害が起こったのだろう)の霊魂に対しこの碑を建てる」という意味であろう。
 ネットで検索しても、この昭和三年七月三十一日の豪雨とか土砂崩れなどの記事は見つからなかったので、図書館に行って当時の新聞を閲覧してみた。


昭和三年八月一日朝日朝刊

中央線のトンネル
豪雨に続々崩壊
甲府への交通途絶す
技手、人夫十三名生埋めとなる

東京を外れた台風
しかし未だに警戒を要する

卅一日朝八丈島付近に現れた台風の中心は遅々として南西の方向に進み同夜九時同島南西約十里の海上に移動したが勢力はだん/\縮小し卅一日朝は四百キロ(百里)内外の区域にわたってゐたものが、夜九時頃にはその半分になってしまったので東京地方はまづ影響をうけずに済んだ、一日は北東の風で雨も降ったりやんだりはっきりせぬが大したことはなかろうといふ観測である、卅一日の暴風雨の区域は和歌山、福島方面化ら新潟地方にわたってゐる、台風はいつ盛り返してくるかも知れないので全国的に警戒を要する状態だ東京の雨量は卅一日正午までが五三ミリ、同正午から午後六時までが一三ミリで風速は九メートル内外であった

【甲府電話】三十日夜来の豪雨から卅一日午後二時中央線上野原与瀬駅■■間■溝四チエンが崩壊し甲府保線運輸両事務所長以下現場に急行復旧工事中午後五時吉野トンネル崩壊し復旧工事中の曾我井技手、設樂工夫長以下人夫十三名が生き埋となり目下全力を挙げて救助中なほ山梨県北都留郡上野原町地内国道十五間決壊し東京、甲府間の交通は全く途絶し列車の復旧は三日を要する予定だが上野原、与瀬駅間約二里の徒歩連絡は山道で不可能であり列車は上野原と与瀬駅から折返し運転を行った

小仏トンネルも崩壊
【八王子電話】三十一日午後九時半頃小仏トンネル東口において約百四十坪崩壊しなほ各トンネルとも危険にひんしつつあるので新宿発下り列車は八王子駅から折返し運転をなすこととなつたが目下のところ復旧の見込みなき状態である


 予想通り台風が停滞して大雨(現在で言う線状降水帯が発生したか)となり、東京は大した影響を受けなかったが中央線沿線では土砂崩れが多発。七月三十一日午後二時頃発生した土砂崩れの復旧作業に当たっていた鉄道関係者が二次災害に遭って生き埋めになったようだ。
 翌日の朝刊には続報が載っている。


昭和三年八月二日朝日朝刊

更に四名の
死体を発見
他は相模川に流れ出たか
中央線現場の惨状

【与瀬電話】中央線橋澤トンネル西口の崩壊で行方不明となった八王子駅詰保線技手松島堅三、建築技手爲我井左一郎、線路工手長設樂仲次郎外工手人夫等八名に対しては森田甲府保線事務所長三十一日来
現場へ出張、人夫二百余名を督励して不眠不休土砂の掘返しにつとめ一日午後二時までに
 与瀬駅詰線路工手組頭松岡森藏八王子駅詰通信工手溝口喜重、横溝組人夫頭古屋政吉、同石井源一
四名の死体を発見したが、その他はまだ行方不明で人夫は暴風雨中を尚時々土砂の崩れ落ちる下で必死に活動しているがまだ不明のものは山から押し出した水と崩壊土砂のために現場下の相模川へ押流されたものではないかと見られ家族等は泣き崩れながら発見を待っている


 前日の第一報では十三名が生き埋めになったと報じられているが、続報では四名の死体を発見し、行方不明者は七名の計十一名になっている。生き埋めになっていなかった人が二名いたのだろう。
 続報は同日夕刊。


昭和三年八月二日夕刊

生埋めの技手等
全部惨死の形跡
小仏付近の山崩れ続出して
不安極度の中央線

【甲府電話】山崩れのため三十一日夜から不通となった中央線は一日に至るも復旧の見込み立たず甲府運輸保線両事務所では総出勤で災害善後処置に努力中だが、与瀬上野原両駅間橋澤トンネル西口付近で山崩れのため埋没行方不明となった八王子保線区の曾我井松島両技手、設樂工手長、線路工手大野七右衛門、中島義夫、松岡盛夫、今村清重、通信工手溝口喜重その他人夫三名合計十一名の救助作業も人夫不足のため進行鈍く、一日早朝同所下流で四名の惨死体を発見したのみで他は全く消息なく全部惨死したものと見られて居る、同所は被害もっとも甚だしく築堤線百五十尺は僅に上流を残すのみで全部付近山川からの出水に洗ひさられ小仏トンネルも二百坪の土砂崩壊あり、付近はトンネル続きの山中だけに浅川与瀬上野原三駅間は徒歩連絡さへ取れぬ状態である、初狩駅構内信号所付近もスイッチバック下り線約三百メートルは岩石混りの土砂で埋められ笹子川はん濫して濁流国道に溢れ復旧作業十分ならず列車は初狩以西、初狩上野原間、浅川以東の三区間に分けて目下折返し運転中だが、初狩上野原間には石炭一万二千貫、機関車八往復しかないので二日朝までに復旧せぬ場合同区間は運転中止の外ない尚中央線から東京に至る旅客はいづれも富士身延線による結果一日の同線乗客は約五倍に激増した


 新たな死体の発見は無く、不明者は惨死したものと推測されている。築堤一五〇尺(四十五メートル)がほぼ流されたと記載されている。
 続報は翌日の朝刊。


昭和三年八月三日朝刊

トンネル崩壊の
現場大作業
小仏は四日中開通か
埋没者を決死的捜索す

【甲府電話】濁流に線路を洗はれ二丈余の土砂たい積等のため不通となってゐる
中央線小仏トンネル、与瀬、上野原間橋澤トンネル西口、初狩沢駅構内東方三ヶ所の復旧工事は新橋、上野、静岡、甲府各保線事務所から三百余名の線路工手を動員し
更に臨時人夫。地方の青年団、在郷軍人、消防組員等をも加へ極力施工中だが今尚雨続きのため橋澤トンネルの遭難者発掘さへ意の如く進まず、埋没者十一名中、四名の死体を発見したのみで五十尺の断がいをロープにすがって下り決死的捜索を続けてゐるが初狩、小仏二ヶ所の埋没線路は四日中に発掘し
開通せしめる予定である最□関は橋澤、天屋両トンネル中間の崩壊線路で築堤は跡形もなく洗はれ二条のレールがなはばしごをかけたやうに残されてゐるのみなので、鉄橋に改めることとなり七十尺の橋げた二つを架設する方針でこの完成までに尚十日を要する


 復旧作業は続いているが、新たな死体発見は無く、鉄道の復旧の方が中心となっている。どうやら橋沢トンネルと天屋トンネルの間は開業時(一九〇一年)からトンネル間に土手を築き(トンネル掘削で出た土砂を使ったのか?)、その上に線路を敷設していたが、この土砂崩れで土手が下の相模川(相模湖は一九四七年完成)に流れ出してしまい、土手を復旧出来ないから橋を架けるしか無いという判断のようだ。それにしても七十尺(二十一メートル)の橋桁を二つ架けるのに更に十日掛かるとあっさり書いているが、当時の鉄道省はそんな出来合の橋桁を幾つも確保していたのだろうか。驚異的な復旧スケジュールである。
 現在の現地は橋桁は一本しかない。トンネルの坑門を延長するなどの防災対策工事の中で、二連だった橋梁を一本に集約したのかも知れない。
 この後も新聞に続報が載ったのかも知れないが、何があったのかは概ね判ったのでこれ以上の深追いをするつもりはない。それにしても、電話取材のせいか、被災者の氏名に間違いが多い。碑に刻まれている氏名が正しいとすると、記事中に氏名が出ている九名中五名が誤字になっている。

碑の氏名   職(所属)       誤字

柗島堅三   保線技手(八王子駅)  松島
今村清重   線路工手(八王子駅)  喜重
石井源一   横溝組人夫頭
為我井佐一郎 保線技手(八王子駅)  曾我井 左一郎
大野左ヱ門  線路工手(八王子駅)  七右衛門
中里壬子次  
設樂仲次郎  線路工夫長(八王子駅)
溝口喜重   通信工手(八王子駅)
榎本重吉   
松岡森藏   線路工手組頭(与瀬駅) 盛夫
古屋政吉   横溝組人夫頭

 線路脇にひっそり佇んでいる忠魂碑だが、犠牲者が主に鉄道職員だったため百年経っても鉄道会社の手で整備されているのであろう。

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