2014年8月16日 (土)

桜田門外の変と私

 三面川に釣りに行ったついでに、関川村の関鉄之介就縛の地を見に行ってみた。
 吉村昭の著作は殆ど読んでいるし、映画「桜田門外ノ変」も観た。桜田門外の変の現場指導者であった関鉄之介の足取りの中でも、湯沢温泉の田屋での捕縛場面は印象深い。更に、個人的に桜田門外の変の水戸藩士達に思い入れがあるのだ。

 関鉄之介が捕縛された場所は新潟県岩船郡関川村の湯沢温泉。関川温泉郷という小さな温泉が点在する中の一つで、一軒の共同浴場と数軒の小さな旅館があるだけの静かな温泉街だ。松岳寺という寺の前に記念碑が建てられているが、実際に鉄之介が捕らえられた田屋旅館は温泉街のどん詰まり、湯蔵川の小さな流れを渡った向こうにあった。現在は普通の民家になっており、そのお宅専用の橋を渡った先の桜の木の下に、「関鉄之介就縛の処」と書かれた杭が立っている。碑の隣の説明版にかつての田屋の写真があり、木造三階建てと思しき建物と、人一人やっと渡れるくらいの木橋が写っているが、現在は小綺麗な普通のお宅なので、川のこちらから眺めるに留め、橋を渡ることは遠慮した。
 旅館街を下っていくと小さな共同浴場がある。入湯料二百円を払って入ってみると、三間四方くらいの浴室に二畳ほどの浴槽がある簡素な造り。現在は三本の井戸から動力揚湯しているが、源泉温度四十七度の温泉が掛け流しになっている。捕縛直前の鉄之介は温泉につかって養生しながら、近郷の若者に軍書を読み聞かせていたという。他に誰もいない共同浴場の湯につかりながら、追われる身の鉄之介がどのような気持ちで、この静かな温泉に潜んでいたのか、思いを巡らせた。

 さて、ここから話はそれて、私と桜田門外の変という話になる。

 私の高祖父(父の父の母の父)は池野駒太郎という横浜の商人であった。妻であった高祖母亀井志やうからの伝承によれば、元は水戸藩の家老の息子であり、安政の大獄の時に水戸藩の檄派藩士と共に江戸に上り井伊大老暗殺に参加したが、当日になって怖じ気づいて逃亡したのだという。よって池野駒太郎という名前も変名で、本当の名前ではなないらしい。という話が我が家では語り継がれている。
 ただ、口伝だけではなく若干の資料が残っており、作成時期不明の仏壇の過去帳には信解院道仙日駒信士という戒名と明治三十五(一九〇二)年四月二十七日という没年月日が記載されており、墓誌(台帳)には分骨されて納められたという記載がある。一方、籍は入っていなかったらしく、戸籍を調べても池野駒太郎の名前は出てこない。慶応三(一八六七)年生まれの志やうは、明治二十六(一八九三)年に長男幸太郎、二十八(一八九五)年に長女はつ、三十(一八九七)年に次男幸次郎、三十三(一九〇〇)年に次女こまを出産しているが、戸籍上では五十六歳になる大正十二年になって初めて結婚したことになっている。

 桜田門外の変は安政七年(一八六〇年)三月に起こっている。池野駒太郎がこの時相当若くて十八歳だったと仮定すると、生まれは一八四二年、一八六七年生まれの高祖母とは二十五歳の年齢差があり、長男が生まれた時が五十歳、亡くなったのが六十歳となる。そして長男が五歳で死亡した明治三十一(一八九八)年には、志やうは既に三人の子供を抱えて東京は四谷鮫河橋の貧民窟に居を移している。もっとも、志やうは長男が死亡した時初めて戸籍を動かして、兄の戸籍からの分家と三人の子供の出生と長男の死亡を一気に届け出ているので、それ以前の動きは恐らくその時点での記憶によるものだろう。ということは、駒太郎と志やうは明治二十五年頃から長くても三十年頃までの関係で、私の曾祖母にあたる長女はつは駒太郎の子であると推測出来るが、次男幸次郎は微妙、三十三年生まれの次女こまの父親は誰なのか判らない。この三人の子供を抱えた高祖母が四谷鮫河橋に住み着いてからの話は、あまりに長くなるので別の機会に譲りたい。

 さて、吉村昭の「桜田門外ノ変」を読んでも、襲撃当日になって逃亡した藩士というのは見当たらないが、ここまでの情報を繋ぎ合わせると次のような粗筋が出来上がる。

 水戸藩の檄派に属する若い藩士だった池野駒太郎は、藩内で沸き上がる井伊討伐の熱に浮かれて脱藩し江戸に出る。どの程度桜田門外の変に係わったかは判らないが、途中から実行メンバーから外れていく。桜田門外の変が起こり水戸浪人の探索が厳しくなると、水戸藩士達に拳銃を提供したといわれる横浜の中居屋重兵衛を頼って身を寄せ、変名を使って従業員として住み着く。翌年重兵衛が死んで中居屋が廃業すると、中居屋で覚えた仕事を頼りに他の商店の従業員となり、維新以降生糸の輸出で成長を続ける商社で実績を積み上げていく。明治二十年代、年齢も五十近くになり、生糸の買い付けで訪れた長野県の諏訪湖周辺で製糸女工だった志やうと知り合い、横浜へ連れて帰り妾として囲う。二児(三児)をもうけたものの数年で離別し、明治三十五年に六十歳以上の歳で死去。かなり立派な戒名がついているので、最終的にはそこそこの商店の主人となっており、志やうは何人か囲った妾の内の一人だったのではないだろうか。死後分骨されているところを見ると、子供もいたために、正式な妾として扱われていたのだろう。

 このように、自分のルーツの中に幕末の水戸藩で檄派に属していた人物がいるので、桜田門外の変については水戸浪士、そして東京の人間なので薩長政府よりは江戸幕府に共感を覚えるのである。

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2012年12月27日 (木)

さよなら幸兵衛

 大人の男として持っていたいものの一つが行きつけの飲み屋ではないだろうか。ここ五年ほど、土日の休みにすることがないと地元(徒歩十分くらい)の飲み屋に昼飲みに行って、その後ゆっくり風呂に入るのが生活パターンになっていた。雑居ビルの一階の角、床面積は約二坪。L字型のカウンターの短い部分に焼き台がある作りで、満席で七名収容という店だ。現在は土日の昼間だけの営業で、客層は常連客ばかり。近所の馬券売り場で馬券を買い、一杯やりながら結果を待っているという非常に回転の悪い店である。
 元は現在の女将の母親が戦後間もなく始めた飲み屋で、以来六十余年、経営は娘が引き継ぎ、区画整理で場所は移ったが営業を続けてきた。元は普通の飲み屋と同じく、平日夕方の営業だったのだが、毎日営業するのが体力的にきつくなってきたので、ここ十年ほどは競馬開催日のみ昼間の営業となったそうだ。そんな事情なので、客は顔見知りの常連客ばかり。殆どが悠々自適のリタイア組で、四十代前半の私は最年少の新参者だ。
 大体私が顔を出すのが正午頃。土曜でも日曜でも番頭格のイタさんが来ていて、日曜だと近所の和食居酒屋の大将であるマンちゃんとアカさん夫婦が来ている。これが十二時台のレギュラーメンバーで、二時頃になるとタカヤマさん、マキさん、サトウさんが現れる。その他にも毎土日来るわけではないが、ホンマさん、スズキさん、イノさん、クロカワさんなどが加わり、私はそろそろ席を譲って帰宅する。以前はイタさんと共にいつでも居たサンちゃんは体を壊して姿を見せなくなり、エンドウさんは震災後に被害を受けた故郷に帰ってしまった。ホシノさんは最近来ないので皆心配しているが、誰も消息を知らない。
 大体滞在二時間半ほどで、ビール大瓶、焼酎ウーロン割り(冷・温)数杯、つまみ二品、やきとり三本というのがいつものパターンで、勘定は千六百円くらい。焼酎はボトルで入っていて、ウーロン茶と氷は無料。女将や周りの常連客とどうでもいい世間話をしたり、競馬中継を見て当たった外したと騒いでいるのを一緒になって冷やかしたりしていると、あっという間に席を譲る時間になってしまう。本当に居心地の良い場所であった。勿論、こんな単価の安い客ばかり相手に、土日だけ営業していたのでは家賃すら払えるとも思えず、女将が道楽でやっているようなものだった。

 遂にこの飲み屋、幸兵衛が六十余年の歴史に幕を下ろすことになった。女将も齢七十五、体力的にきつくなってきたし、元気な内に息子の嫁や孫達と遊びたいということなので、残念だが仕方ない。今までよくぞこんな儲からない客相手に店を続けてくれたという感謝の気持ちだけである。
 最終日の二十四日は混雑を予想して少し早めに入店。イタさんの他にスズキさんが娘と孫を連れてきている。スズキ一家と入れ替わりにホンマさん、続いてタカヤマさん、アカさん、マキさんが来店。競艇に行くというイタさんを「競艇はいつでも行けるんだから今日はよしなよ」と焼酎を注いで引き留め、いつも通りサトウさんと入れ替わりで店を後にした。
 手帳を調べてみると二〇〇七年から一七二回この店に飲みに行ったことになる。幸兵衛がなくなると休日の楽しみが減ってしまうが、どう考えても代わりになる店は見つからないだろう。休日の昼飲みをやめればいいだけの話だが……。
 たった五年ではあったが、居心地良く入り浸れる飲み屋に出会えたことに感謝したい。ありがとう幸兵衛、ありがとうおっかさん。

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2012年5月24日 (木)

抗生物質で台無し

 風邪を引いて二日ばかり寝込んだ。七年前に煙草をやめて以来、滅多に風邪を引かなかったのだが、久しぶりである。私は元々了見が虚弱なので、体質も弱々しい感じがするのだが、無理をしないせいか意外に丈夫で、花粉症と虫歯くらいでしか医者に行くことがない。今回も二日ほどじっとしていたら熱も下がったので、もう大丈夫と思っていた。ところが、昼間は大丈夫でも、夜横になると咳が止まらなくなって、ウトウトしては咳き込む状態が続いた。これでは保たないと諦めて医者に行き薬をもらってきた。

 初めて行った職場の近くの耳鼻咽喉科は、咳止めと抗生物質を処方してくれた。普通の風邪ならば抗生物質は飲みたくないのだが、今回はとにかく咳を止めないと眠れないので、医者の指示通り抗生物質も飲んだ。確かに咳は鎮静方向に向かい、眠れないほどではなくなった。しかし、以来どうも体全体が不調なような気がするのである。まあ、完全に気持ちの問題なのだが、体内の善玉菌が死滅して、体中の抵抗力が無くなってしまったような気分になっているのだ。今まで毎日毎日規則正しく乳酸菌系の飲料を摂取し続けてきたのに台無しにした気分だ。極端な言い方をすれば、せっかくおなかの中で育ててきたものを流産してしまったような喪失感である。

 昔から、病は気からと言うが、こんな凹んだ気持ちでいるから、風邪もすっかり治った気がしないのである。ここは一つ了見を切り替えて、リセットした状態から、前よりいい状態を作ることにした。乳酸菌製剤のビオフェルミンSを一瓶買ってきて、食後に三錠づつ飲むことにする。普通の乳酸菌飲料と、オリゴ糖や植物繊維を多く含む飲料も規則正しく飲むことにする。これで腸内には善玉菌が大繁殖するに違いない。ついでだからこの夏は、鮎の刺身を食べて、横川吸虫(小腸に寄生する人体寄生虫)を育ててみようか。腸内細菌も寄生虫も花粉症のアレルギー症状を抑えるという説があるので、合わせ技にすれば幾らか効果が期待できるのではないだろうか。

 このように、本来何らかの目的のために始めた行為が、その行為自体が面白くなってしまって目的を見失うというパターンは、いわゆる「ダメな人」によく見られるようである。

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2012年3月28日 (水)

松崎釣具店の思い出

 私は東京郊外の多摩川の近くで生まれ育ったので、幼い頃から川釣りをして育った。
 一番最初に釣りを教えてくれたのは父だった。父は釣りが趣味ではないのだが、同じく多摩川近くで生まれ育ったので、川沿いの子供なら誰でも知っているハヤ(ウグイ)やヤマベ(オイカワ)の按摩釣りと、小物のウキ釣りを教えてくれた。
 そして次に、現在も釣りの師匠である伯父貴に色々な釣りを教わり、段々面白くなってくる。同級生の釣り仲間も何人か出来たところで、小学四年生からアニメ「釣りキチ三平」の放映が始まる。釣り仲間の久保田君や郷田君たちとあちこちに釣りに出かけ、最初は玉ウキでクチボソ(モツゴ)などを釣っていたのが、子供向けの釣り入門書を読んだり、釣りキチ三平を見たりして、色々な釣りに手を出すようになった。吸い込み仕掛けの鯉、鮒釣り、用水路での小物釣りなど、手近で出来る釣りのレパートリーは増えていった。中でも一番得意だったのは中央線鉄橋下でのヤマベ釣り。特製の六尺(一、八メートル)竿にドングリ型ウキの仕掛けで、上下線の橋脚の間の深み(結構流れが強い)で、放課後平均二〇~三〇匹くらいというなかなかの腕だった。もっとも、当時の多摩川は今よりずっと水質が悪かったから、釣った魚は少数を飼育する以外は放流するしかなかった。小学生のやることだから、魚を触らないようにいたわって放流するなんて行為ではなく、小さなズックビクに貯めておいて、最後に水を抜いてビチビチ跳ねているのを眺めて悦に入ってから放すという乱暴なものではあったが。
 そして、遂には小学生のくせにヘラブナ釣りに手を出し、近所にあった釣り堀に通うまでになった。小学生が一から自力でやるヘラブナ釣りだから、かけがえのない安物の道具一式ではあったが、何とか坊主では帰らないくらいの技量には達していたと記憶している。

 そんな釣りキチ少年だった頃、毎日のように通ったのが、自宅から一五〇メートルほどのところにあった松崎釣具店だった。道路に面した民家の一間、六畳くらいが店舗で、奥の座敷は自宅という造りの店だった。ここで一〇メートル巻三〇円のナイロン糸や、一袋三〇円のサシ(養殖蛆虫)、小口油肥という会社名だったマルキューの練り餌、六本入り五〇円のがまかつの糸つき針などを日常的に買っていた。また、誕生日やクリスマスになると、祖母を連れて行って鯉釣り用の投げ竿とリール(まだ仕舞ってある)など値の張る物を買ってもらうために、日常的に商品の偵察を怠らなかった。
 この釣具屋の店主は中年のオジサンで、どうやら独り者らしい雰囲気だった。大したものを買うでもなく毎日のように来る近所のガキを嫌がらず、面白がって相談に乗ってくれた。具体的な釣り方の助言から昔の釣りの話など、色々話してくれたが、釣りキチ三平で見たヤマベのタタキ釣り(釣りキチ三平ではジンケンのゴロ寝釣り)の話などが面白かった。とりもちを使ってサナギ玉という針を作り、それで水面を叩くようにすると面白いように釣れた話などを聞いた。また、夏休みに名栗川にバーベキューに行くことになり、「尺バヤ(三〇センチ以上のハヤ)を釣ってやる」と意気込んでいる私に、「名栗川で尺バヤが釣れたら首をやる」と笑って、小さな川では魚も大きくならないことを説明してくれた。
 またあるときは、公園の溜め池で蛙取りをしていて偶然にも二尺の大鯰を捕獲してしまった。仲間同士で溜め池で網で捕ったのでは格好が付かないから、多摩川で釣ったことにしようと結託した。魚拓を取って(鯰は飼育を試みたが、大きすぎて飼いきれず死んだと記憶している)、箔をつけるために現認者の書き込みを加えようと、魚拓を釣具屋に持ち込んだ。オジサンは事情を聞くと渋い顔をして、「現認者っていうのは現物を確認したって事だから、魚拓だけ持ってきても現認出来ないんだぞ」と苦言を呈し、でも「まあいいか」と苦笑いして、魚拓の隅に現認者と書き込んで、店名のゴム印を捺してくれた。この捏造魚拓のおかげで、学校で私は釣り名人という評価をされるようになったが、網捕りの現場にいた真実を知る仲間には頭が上がらなくなった。
 また、このオジサンは傷物の売り物をよくタダでくれた。練り餌の袋の破れたのはちょいちょい貰った気がする。よく覚えているのはヘラブナ釣り用のフラシ(網ビク)と竿掛け。どちらも小学生の小遣いでは手が出ないものだ。これらを貰ったことがヘラブナ釣りにまで手を出す布石になったように思う。オレンジ色のフラシは、一部ほつれていた網の部分を赤い糸で補修して、実際の使用には支障なくしてもらった。竿掛けは伸縮式の長さを固定するネジの部分が割れてしまったのを、ネジ部分に金鋸でぐるっと溝をつけ、そこに太い補修糸を巻き、接着剤で固めて補修してくれた。前にいた客が強く締めすぎて割れてしまったらしく、オジサンは「何て馬鹿力なんだ。飯食い過ぎてるんじゃないか?」と愚痴を言いながら直してくれた。この「飯食い過ぎてるんじゃないか?」のフレーズは、今だに時々使わせていただいている。
 そして、釣具屋らしく器用な人で、私がヤマベ釣り用に六尺の竿が欲しいと頼むと、店頭にあった九尺(二、七メートル)のヘラ竿を改良して六尺の竿を作ってくれた。いつも店先のガラスケースの上に置いてある切り出しナイフで、三本継ぎの九尺竿の握り手を切り落とし、二番手の元の部分に糸を巻いたり切り落とした部分をうまく加工したりして繋ぎ、段差になった部分は糸を巻いた上から黒カシュー(油性の漆塗料)で固めるという凝った作りだった。図らずも自分しか持ってない竿を手に入れた私は大喜びして、随分大事に使ったのを覚えている。また、針に糸を結ぶ方法なども実際に目の前で実演してくれた。その手際は見事で感心していると、「がまかつ(釣り針メーカー)の内職のオバサンたちはこんなもんじゃなく、もの凄い早業で巻く(針に糸を結ぶ)んだぞ。一本巻いて五十銭貰えるらしいけど」などと教えてくれた。私は今でもこのときに教わった方法で、バラ針に糸を結んでいる。
 私はいつもオジサンに、いつか実際にオジサンが得意な渓流釣りを教えてくれと頼んでいたが、オジサンの答えは「中学生になったら連れて行ってやる」というものだった。曰く、「今の体格では岩場などを歩く時に付いてこられない。脚のコンパスが大人並みになれば、足手まといにならないから連れて行ってやる」という事だった。私は早く中学生になって、オジサンに釣りに連れて行ってもらおうと、無邪気に考えていた。

 残念ながら、結局松崎釣具店のオジサンに、渓流釣りに連れて行ってもらうことは叶わなかった。中学に入学した私は吹奏楽部に入部。当たり前だが部活が楽しくなってしまい、釣りのことなどすっかり忘却の彼方だった。毎日朝夕松崎釣具店の前を通って中学校に通っていたのだが、オジサンとの約束も、たまに「そんなことがあったな」くらいに思い出す程度になってしまっていた。
 そして中学何年の時だったか忘れたが、ある日松崎釣具店の店内に葬式の飾り付けがされているのに遭遇する。その時の記憶が曖昧で、その場で誰かに聞いたのか、家に帰って家族に聞いたのか定かでないが、亡くなったのはあのオジサンだという。確か、急に亡くなったらしく、まだ四十代で独身なのにと誰かが言っていた。オジサンの葬式に参列したのかも記憶がない。焼香だけしたような気もするが、恐らく行けなかったのではなかったか。オジサンが亡くなったと聞いて、中学生の私には、近頃足が遠のいていたことが急に後ろめたく感じられて、今更顔向けが出来ないような気持ちになってしまったのだ。思春期の不安定な心では、そんな気持ちを抑えて、オバサン(店主の母親、時々店番をしていた)に悔やみを言うなんて、到底出来ることではなかった。
 それから暫くの間、松崎釣具店はオバサンが店番をしていたようだが、いつの間にか店仕舞いしてしまった。もっとも、オジサンが元気だったとしても、奥多摩バイパス沿いに上州屋が出来てしまい、地元の釣具屋は殆ど廃業してしまったから、松崎釣具店もいずれ廃業していたことだろう。
 今でも松崎釣具店の建物はそのまま残っているが、普通の民家になっており店舗の面影はない。時々前を通ると、私の釣り好きの原点は、あのオジサンが育ててくれたのだと感慨深い気持ちになったりする。

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2011年8月15日 (月)

中央線の車内放送

 毎日通勤で利用しているJR中央線の快速電車。新型のE二三三系に置き換えが完了し、車内放送も自動化された。発車直後の「次は○○」と、到着直前の「間もなく○○」の放送が、録音された女性の声で日本語と英語で流れるのだ。
 最近気づいたのだが、その自動放送の英語の部分に変化が見られた。「The next stop is Shinjuku.」などという中の駅名の部分が差し替えられたのだ。今までは全てネイティブらしい女性が、駅名も英語らしい抑揚を付けて読んでいた。基本的に二音節の駅名は頭に、三音節の駅名は二音目に、それ以外では変なところに妙なアクセントがついて、とても面白い。中でも「Kitty George」と聞こえる吉祥寺や、「信二君」と聞こえる新宿はなどは傑作だったと言える。
 ところがその駅名の部分だけ、日本語ヴァージョンと同じ音源に差し替えられ、別に面白くなくなってしまった。部分的な差し替えをするのは結構手間だから、何か理由があったのだろう。どこぞの偉そうな人とか何かが苦言を呈したとかいう、どうでもいい話だろう。どっちの方が英語人に判りやすいとかはどうでもいいのだが、ちょっと楽しみが減ってしまったような気がする。JRも少しは遊び心を持って、十編成に一つくらい元のやつを混ぜておいてくれると、当たった時に嬉しい気がする。ええ、遊びじゃないから無理なのは承知してます。ふざけて言ってみただけです。

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2008年10月27日 (月)

三度目

 土曜日に釣りに行こうと思い、早朝の南武線に乗車。もうすぐ川崎に着くなと思う頃、非常ブレーキで停車。車内放送が「この列車が平間駅に進入の際、人身事故が発生しました。乗務員が確認のため電車から離れますので、絶対に電車から降りないでください」と告げる。
 中央線で二十年近く通勤・通学しているので、人身事故で予定が狂うことは日常茶飯だが、乗っている電車が人身事故を起こしたのは三回目だ。余裕を持って家を出たのに、釣り船の出船時刻に間に合わなくなりそうだ。幸い先頭車がホームにかかっているので、平間駅で降りることは可能らしい。川崎駅まで歩いて間に合うか微妙なので、まずは携帯電話のナビ機能で川崎駅までの距離を調べようと思いつく。GPS信号の受信状態を良くするために窓を開けて車外に顔を出したら…。見てしまいました。一両ほど先の線路脇に倒れている人を。
 目撃者が乗務員や野次馬と声高に話しているので、状況は大体判る。飛び込み自殺ではなく、踏切の直前横断。三十センチほど間に合わず跳ねられたらしい。轢断ではないので、普通に線路脇に横たわっている感じだ。脱げたスニーカーと持っていたらしいバッグが散らばっているのが生々しい。
 死体を見た瞬間から「歩いて川崎駅まで行けば釣り船に間に合うかも」などという了見は消し飛び、目が離せなくなってしまった。救急隊、警察の到着から現場検証、運転再開までずっと見守り、色々考えてしまった。事故の状況だけで考えれば、危険を承知で渡ろうとした本人の問題だ。しかし朝六時に遮断機の下りた踏切を無理に渡らざるを得ないほど急ぐ事情を抱えていたのか。それとも朝まで飲んでいて訳がわからなくなっていたのか。ともかくも、すぐ目の前に、たった今不用意に死んでしまった人が横たわっていた。
 私は「鉄」なので、日頃から「鉄道自殺は犯罪。轢断死体は見せしめに放置して、カラスや野良猫に食わせちまえ」などと言っているが、事故の場合は死んだ人も鉄道会社も気の毒としか言いようがない。踏切事故を減らすための高架化推進は、鉄道会社の責任ではなく公共交通機関全体、つまり国の方針として進めて欲しいものだ。

 勿論、釣りに行く気は失せて(時間も間に合わなかったが)、そのまま家へ帰って一日中ぼーっとしていた。気分転換に飲みに行こうと思ったら、行きつけの飲み屋は臨時休業だった。

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2008年5月22日 (木)

「カレセン」って何だよ!

 Yahooのトピックスを見ていたら、こんな記事が目についた。

「ただいま急増中!「カレセン」OLを落とすのは誰だ?」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080522-00000004-gen-ent

 まあ、「ちょいワルオヤジ」の次には「哀愁漂う枯れたオヤジ」が流行るという与太記事で、そういうオヤジを好きな女性を「カレセン」と呼ぶのだそうだ。中でも傑作なのが次の部分。

「また「カレセン」本によれば、魅力的な枯れオヤジの条件は以下の通りだ。
●ひとりの時間を持て余さない。
●路地裏が似合う。
●ビールは缶より瓶。
●ペットは犬より猫が好き。
●ひとりでふらっと寄れる行きつけの店がある。
●さりげなく物知り。
●金や女を深追いしない。
●自分の年齢を受け入れている(若ぶらない)。
●人生を逆算したことがある、など。」

 すみません、私全部当てはまります。いや、それ以上に、
●どうでもいい場合は年齢を五歳多く申告する。
●若者と話すときの一人称は「オジサンはね」。一人称複数は「オレ達中年はね」。
 など、その上を行く行動を取っている自覚がある。
 この記事のよれば、これからはそういう枯れたオヤジがモテモテらしいのだが、いい加減にしてもらいたい。今さらモテても困るんですよ。モテたくてモテたくて身悶えしていた十代二十代のころはちっともモテなかったのに、四十に手が届こうという今頃モテモテになっても手遅れだ。全く迷惑なハナシである。
 もっともこの記事の最後には

 これなら俺もイケるかも……と思ったアナタ。枯れた魅力でモテようという欲望があるうちはまだまだ未熟。“枯れ”の境地に達するのは意外と難しいのです。

 と、見事な落ちがついている。ネタ元は日刊ゲンダイらしいが、最近では最もツボに入った記事であった。

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2008年4月11日 (金)

変電所火災で思い出した歌

 二〇〇八年四月一〇日木曜日、午前七時五〇分頃。私は税理士事務所に決算資料を持ち込むべく、立川駅のホームにいた。税理士事務所のある東京駅までは一時間弱。約束の十時よりは一時間ほど早く着いて、喫茶店でお茶を飲んで余裕の到着になる予定だった。しかし・・・。
 向かいのホームに停まっている電車がちっとも動かないなと訝しんでいると、駅の案内放送が「国分寺駅の変電所で火災が発生し、電気が足らないため電車を動かせません」と告げる。普段だったら喜んで電車が動くまで暇をつぶすところだが、今日はそうはいかない。資料は自分が預かっているから、自分が行かないと税理士も同僚も何も出来ないのだ。
 振り替え輸送で大混雑の南武線に乗車し分倍河原で下車。京王線に乗り換えたいが、ホーム上に人が溢れてちっとも進まない。ようやく京王線のホームに辿り着き各駅停車新宿行きに乗車。一つ目の府中で準特急に乗り換えるが殺人的な混雑で、多客混雑も重なってノロノロ運転。目の前のオヤジの後ろ頭に見覚えがあると思ったら、毎日立川から目黒まで一緒の電車の一緒の車両に乗っているオッサンだったので二度びっくり。
 十時近くなってやっと新宿に到着。税理士事務所と同僚に電話し状況を説明し、中央総武各駅停車に乗ろうとすると、ホーム上に人が溢れているため、入ってきた電車に傘が当たり、異音感知で数分抑止。秋葉原で京浜東北線に乗り換え、東京駅に着いたのが十時二十分頃。既に二十分の遅刻。
 昨日資料を預けたコインロッカーから取り出した資料を抱え、駅構内を税理士事務所へ向かって走る。その時何故か、走りながら自然に歌を唄っていた。曲は中島みゆきの「遍路」。息が切れているが、走っているのをいいことに結構大きな声で歌っていた。

もう幾つ目の 遠回り道 行き止まり道
手にさげた鈴の音は
帰ろうと言う 急ごうと言う
うなずく私は 帰り道も とうになくしたのを知っている

 全く急ぐ局面に相応しい歌ではないのに、何でいきなり歌い始めたのか、その時は気にしなかったが、後で冷静になると気になってくる。

 よくよく思い返してみたら判明しました。東京駅の電光掲示で京浜東北線の「磯子」行きを見た瞬間に、「帰ろうと言う 急ごうと言う」の歌詞を連想したようです。つまり私は、血相変えて駆けだしながら「帰ろうと言う、磯子と言う」と唄っていたわけですな。

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2007年6月29日 (金)

夏の拷問

 日頃AMラジオをパソコンで録音し、携帯音楽プレイヤーで聞くというのが生活習慣として定着している。そして、毎年夏になると不快なコマーシャルが流れてくる。

 テレビでも何年も前から評判の悪い「永谷園のお茶漬け」のコマーシャルである。確か最初のヴァージョンは、若い男が電話も取らずにお茶漬けをズルズル掻き込むというものだった。
 「品がない」「不快」という評判が多かったが、印象に残ったためお茶づけ海苔は売れたらしい。調子に乗って永谷園は今日までお茶漬け掻き込みシリーズのコマーシャルを制作しているが、近年は夏になると「冷やしウーロン茶漬け」なるもののコマーシャルをラジオで流すのである。
 テレビでは映像があるから不快さと豪快さみたいなものが混在していたが、映像なしで音だけ流すのは拷問に近い。食堂で相席になったひとがあんな「ビチャズルグチャズルズル、プハァ~!」って音を立てて食べていたら、一気に食欲も失せるだろう。更にヘッドフォンで聴いているので、あの音が脳内に定位するから最悪だ。

 食事制限ダイエットをしている人は、何か食べたくなったら「冷やしウーロン茶漬け」のコマーシャルをヘッドフォンで聞きながら、伊武雅刀の声色で「少年の右手に光る使い慣れた水色のストロー!、その少年を人はこう呼ぶ、痰壷小僧~!」と言ってみましょう。食欲が無くなること請け合いです。

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2006年5月22日 (月)

ただ反省

 本当に申し訳ありません。昨日私事、環七通り野方付近を時速六十三キロメートルという尋常でない猛スピードで走行したため、警視庁野方警察署交執係の大谷克博巡査に交通反則通告書を交付されるという、許されない罪を犯してしまいました。
 環七通りという狭い路地道の、両側壁のアンダーパスで両側からいつ歩行者が飛び出てくるかわからない状況で時速六十三キロメートルとは、自分でもどうかしていたとしか言いようがありません。更に、先行車と車間距離を取りすぎていたのも円滑な交通を妨害する運転技量不足であったと、深く反省します。
 わが「電波カー」にはレーダー探知機、無線機などを搭載しており、そこで速度取り締まりが行われていることは重々承知していました。それなのに時速六十三キロメートルという速度を「尋常でない猛スピード」と認識せず、安全な制限速度の時速四十キロメートルまで減速しなかったのは、私の感覚が狂っているとしか言いようが無く、率直にクルマを運転する資質に欠けていることを認めざるを得ません。
 心から今回の不祥事について反省するとともに、環七通りを通行するクルマが全て制限速度を守ることと、警視庁野方警察署の益々の繁栄を心より祈念いたします。

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