2024年1月 3日 (水)

市子

市子(二〇二三年 配給:ハピネットファントム・スタジオ 監督:戸田彬弘)

 地元の映画館の上映予告を見て、ちょっと面白そうだなあと思っていた映画。公開前にTBSラジオの「こねくと」で町山智浩が「今年の邦画でベスト」と言っていたので公開二日目に鑑賞。時系列が複雑かつ、最後まで説明しない構成のため、鑑賞後色々な謎解きと推測が頭を離れず、一週間後にもう一度鑑賞。生まれて初めて映画のパンフレットを買って、市子の年表を見て答え合わせをする。但し、答え合わせをした上でもう一度確認したい場面も多く、もしかするともう一度見に行くかも知れない。間違いなくDVDなどのパッケージになったら購入すると思う。
 予備知識無しで観て、さほど泣ける場面も、笑える場面も、スリリングな場面も無い。だけど観終わって色々考えると、だんだん辻褄が合ってくる。そしてもう一度観直すと、あらゆる伏線が繋がってきて、ああなるほどと合点がいく一方で、主人公に対する喜怒哀楽などで分類できない不思議な感情が生じる。生まれてこの方、映画を見たあとに何週間もその映画のことを考えるなどという体験はしたことがなかった。
 観終って豊かな気持ちや、楽しい気持ちになる映画ではない。むしろ重い気持ちにしかなれない映画だ。サスペンスとして考えれば筋書きに若干無理な部分もあるが、それを超えた素晴らしい脚本、そして役者達の素晴らしい演技、私の中の映画ベストスリーに入る映画だ。
 ただひとつ、どうしても違和感を感じた点がある。音響である。
 建物の中で二人の人間が対話する場面が大半のこの映画で、カメラのアングルが切り替わるたびに、音場が入れ替わるのだ。画面に写っている人物の声が前から、それに応える相手の声がサラウンドで背後から聞こえる。画面が切り替わると逆になるのだ。映画館というある程度広い空間でこれをやられると、前後の人物が目まぐるしく入れ替わるので、台詞に集中できないだけでなく、船酔いしそうになってくる。このような映画でサラウンド音響を駆使するのは邪魔でしかない。
 最終的には監督の責任なのだが、日本映画の音響のレヴェルがいまだこの程度で、折角のいい映画にケチを付けているのが残念でならない。DVD化されて購入したら、モノラルの片耳イヤホンで聞いてやろうと思う。恐らく何一つ問題はないどころか、より台詞に集中できるはずだ。ただし、エンドロールの部分だけは両耳イヤホンでしっかり聴いたほうがいいと思う。

(追記)
二〇二四年六月十一日新文芸坐(池袋)

 三月から配信が始まったが、七月にDVDが発売されるようなので、それが出たら観直そうと思っていたのだが、池袋の新文芸坐で上映していたので、スクリーンでもう一度観直してみた。
 一回目と二回目を観た立川キノシネマに比べると新文芸坐は箱が大きいので、音響についての違和感は増幅した。長谷川となつみが対峙する屋外(漁港)の場面まで音場が前後に入れ替わるのは違和感しかなかった。
 映画自体の感想は、本当によく作り込まれた映画だと改めて思った一方、市子に感じる思いが観直す度に気の毒から怖いに振れていくのを感じる。出生や置かれた環境の不幸さに最初は目を奪われて同情を禁じ得ないのだが、次第に市子という人間が身に着けてきた生き方に恐怖を感じるようになる。ケーキ屋の場面で、特にそれを強く感じ、以降の市子はサイコパスにしか見えなくなってしまった。
 この映画が一回観ただけでは理解しにくい大きな理由が、特に映画の前半では時空がコロコロ入れ替わるからなのだが、最初の方で後藤刑事が示す「一九八七年生まれ」というところから計算して、それぞれの場面を「市子が〇歳の夏」と勘定して観ると時間軸が判りやすいと思う。そう、この映画はほとんどの場面が夏の描写である。蝉の声、汗、青空、夕立、ガリガリ君、花火、夏祭り。転々と夏の場面がつなぎ合わされていき、大きな二つの事件が起こるのは、実は同じ二〇〇八年の夏であることが、三回目にして理解できた。でも、時間軸に沿って場面を並び替えて観たとしても、流れは把握しやすくなっても面白くないのだろうなあ。

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2013年2月27日 (水)

パラダイスビュー(一九八五ヒートゥバーン・プロダクション)

パラダイスビュー(一九八五ヒートゥバーン・プロダクション)

ポニーキャニオンVHS(一九八五)

 一九八九年のウンタマギルーと同じ監督と同じような出演者、同じ沖縄が舞台の映画。勝手な推測だが、監督がこの映画の出来に満足していたなら、ウンタマギルーは生まれなかったのではないか。
 ウンタマギルーを何度も観てしまった後でこの映画を観ると、やはり不完全という気がしてしまい気の毒だ。物語の面白さも、幻想的な雰囲気もウンタマギルーの出来には遠く及ばない気がする。しかし、何の予備知識もなくこの映画を観れば、かなり面白いのではないだろうか。その代わり、この映画の後にウンタマギルーを観たら、初めてウンタマギルーを見た時の衝撃は感じられないかも知れない。どちらも観た事がない人にどっちを先に観るべきか問われたら、相当悩みそうな気がする。
 出演者の中では、やはり細野晴臣が足を引っ張っている感じが否めない。本土人の植物学者という、沖縄の社会での異物を演じているのだが、異物感を演じている以上に違和感があるのだ。台詞が日本語(他に日本語を喋るのはちょい役の二人のみ)な事もあり、細野晴臣が喋り出すと急に物語ではなく学者のインタビューのようになってしまう。これは演技が巧すぎるのか、下手なのかよく判らない。
 それにしても、撮影当時二十代半ばの戸川純は魅力的だ。今こうして見ると、決して美人ではないし、スタイルがいいわけでもないのだが、何ともコケティッシュである。劇中でアルバム「極東慰安唱歌」に収められている「海ヤカラ」を歌う場面があるが、体をクネクネしながら歌う様子が、ファンにとってはそこだけチルーではなく戸川純に見えてしまうから不思議である。どうでもいい話だが、私にとっての二大歌手(戸川純、さねよしいさ子)がともにクネクネ系の歌手である事が面白い。残念ながら森山直太朗は好きではないが。
 この映画もウンタマギルー同様、封切り後VHSカセットで発売されたが、それきりDVD化はされていない(ウンタマギルーはLD化している)。今回はたまたま見つけた古いレンタルVHSで観たが、画像音声ともに乱れており、決して作品の本質に触れられたとは言い難い。何とかDVD、欲を言えばブルーレイディスクで発売してもらえないだろうか。

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2012年7月13日 (金)

春だドリフだ全員集合

春だドリフだ全員集合(一九七一年 松竹)

松竹ホームビデオ

 ドリフターズの映画は全部で二十一作あるが、製作年代が一九六七年から一九七五年までなので、一九七〇年生まれの私は一本も劇場で観たことはない。十年ほど前に東宝製作の五本はテレビで放映されたが、松竹製作の十六本は手つかずだった。もっとも、私はドリフのコントが好きなのであって、脚本家が別にいる映画についてはさほど興味がなかったというのが本音である。
 今回は今更VHSビデオを購入して鑑賞した。理由は簡単で、この映画はいかりや長介が売れない噺家という設定のため、師匠として三遊亭圓生、その他柳家小さん、入船亭扇橋、桂伸治(十代目文治)などの噺家が出演しているのである。
 物語は万年二つ目の噺家なまず家源五郎(いかりや)を中心としたドタバタ劇で、粗筋は省略するが、お手軽映画にしては伏線が活きていたり、ちょい役で当時の人気スターが何人も出ていたりで結構面白い。期待した噺家の出演シーンはそれほど多くないが、師匠役の圓生の名脇役ぶりが光る。圓生は舞台やテレビドラマなどにも出ていたようだが、小さんや伸治と違い、素人出演者をフォローする役回りになっている。また、寄席の舞台袖の場面では寄席囃子の名人橘つや師が、斜め後ろからちらりと映るのが貴重である。

 落語ファンにとって、この映画の最大の興味は、圓生の脱退宣言の場面であろう。この映画の七年後に実際に起こる、落語協会分裂騒動の予言だなどといわれているシーンだが、実際にはちょっと違う。いや、逆と言っていいだろう。(ここからネタバレ)いかりや達が紛れ込んで大騒ぎになっている宴会の隣室で、落語連盟の幹部(圓生、小さん、伸治ともう一人)が真打昇進の選考会議をしている。全会一致の数名の他に、圓生は自分の弟子の碇亭長楽(なまず家源五郎から改名)を加えるよう頼んでいる。話が纏まった頃に隣の座敷で爆発が起こり、芸者の扮装をした長楽が飛び込んでくる。それが長楽だと気づいた圓生は呆れ返り、「長楽の真打昇進は御破算です。私は落語連盟を辞めます」と詫びる。弟子のダメさに呆れて、お詫びのために辞めるというのがこの映画の筋で、会長の方針と相容れないから脱退するという、実際の事件とはかなり異なるのである。

 ドリフの映画は他にもたくさんあるが、他の作品はわざわざ購入してまで観ようとは思っていない。レンタルDVDで出してくれればいいのに。それにしても、この映画の題名は何とかならないのか。ドリフの映画は殆どこんな命名で、内容と無関係なものが多い。これでは何作も観ていると、題名と内容が一致しなくなるだろう。全員集合シリーズならば、せめて「落語の修行だ全員集合」くらいにしてもいいのではないか。内容に春を感じさせる場面は、強いて言えば学生が引っ越してくる所くらいしかなかったと思う。

 VHSプレイヤーが何時臨終を迎えるか知れないので、DVDに焼いておこうと思ったのだが、コピーガード信号が入っているらしくて録画出来なかった。残念だが、何本か持っているコピーガードのかかった市販VHSソフトは、プレイヤーが死ぬと一生お蔵入りにするしかないようである。何だか釈然としないが、仕方ないのだろう。

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2011年3月 1日 (火)

ソニー/ICZーR五〇

 ソニーの新製品。昔、ソニー小僧だった私だが、ここ十五年くらいは単体のラジオ受信機以外のソニー製品を購入していない。技術で売っていたソニーの電気製品と本田のクルマには、八〇年代後半以降魅力を感じなくなっていた。
 そんなソニーが遂にやってくれた。エアチェックという言葉が死語になって久しいが、細々とラジオ番組を録音し続けていた私のような変人が待っていた製品だ。家電の新製品を発売日に予約購入したのは初めてかも知れない。
 概要を説明すれば、昔からある小型ラジカセの録音媒体がカセットテープからメモリーカードに変わり、最大二〇件登録できる予約録音機能を搭載した製品だ。この最大二〇件の予約録音というのが肝心なのだ。単一番組を予約録画するのであれば、チューナーとパソコンのサウンドカードを繋いで、タイマー録音ソフトで録音すればよい。私も長いことこの方法で録音してきた。しかし、一週間のうちに複数の録音したい番組がある場合や、旅行などで家を空ける場合に困るのである。なので、曜日時間帯や放送局がバラバラな番組を混在して予約録音できるのが有難いのだ。
 実はこの手の製品は、既にサン電子、オリンパス、三洋電機から発売されている。私はサン電子のトークマスターⅡを何年か使っている。予約録音機能においてはトークマスターⅡもICZーR五〇もさほど変わりはない。オリンパスのラジオサーバーは心が動いたが、値段が高すぎることと、録音方式がWMA形式だけなので、今までのMP3形式と別形式になるのが嫌で思いとどまった。三洋のRSシリーズも、ポケットサイズのICレコーダーをクレードルに納める形態が気に入らなかった。部屋に固定で使用する形状で、AMの外部アンテナを接続できるものが出ないものかと期待していたのだ。
 そこに登場したのが、このソニー/ICZーR五〇である。まだ二週間ぐらいしか使用していないが、既存のトークマスターⅡと比べて良いところ悪いところを書き出して見る。なお、これはあくまで単体で使用し、録音したファイルのパソコンへの転送はカードを媒体にした受け渡しでの使用感である。

【良いところ】
・筐体が大きい(弁当箱くらい)ので、固定使用に安定感あり。
・ステレオスピーカー内蔵で、据え置きラジオとしての満足できる音質。
・日本語表示ボタンで、取扱説明書を見ずとも大体の操作ができる。
・AMの感度はまあまあ。内蔵アンテナでもそこそこ使える。
・外部記録媒体がSDカード対応(メモリースティックだけじゃなくて本当に良かった)。
・録音方式がMP3(WMAじゃなくて良かった)。
・録音のビットレートが3種類のみ(一九二kbpsステレオ、一二八kbpsステレオ、四十八kbpsモノ)で、FM高音質、FM普通、AMで無駄に迷う必要がない。
・スリープタイマー搭載(録音だけに特化しておらず、枕元ラジオとして使いやすい)。
・カード媒体に自由な名前のフォルダを作成できるので分類が楽。
・地域ごとの放送局がプリセットされており、自動生成される録音ファイル名にも日時と放送局名が入る(ローカル局のみ)。

【悪いところ】
・録音レヴェルが低い。
・自動時刻修正機能がない。

 と、良いところが殆どなのだが、時刻修正機能がないのはかなり痛い。ネット接続環境にあるパソコンに接続して、付属ソフトを立ち上げると、時刻サーバーに接続して自動で修正するらしいのだが、時刻修正機能は単体でつけて欲しかった。トークマスターⅡはNHKーFMの時報を受信して自動で時刻修正をする(多分?)ので、単体でも時刻が狂わないのだ。おそらく同じ機能を持たせるとFM用のロッドアンテナを伸ばしておかないといけないのが、この機能を非搭載にした理由ではないかと勝手に推測する。確かにトークマスターⅡではFM用のワイヤーアンテナを常時張っておかなければならないから邪魔ではある。録音媒体をカードにした段階で、単体のみでの使用する想定を切り捨てたのだろう。事情はよく解るのだが、それほど搭載が大変な機能とも思えないので、両方搭載して欲しかった。
 ラジオの録音は冒頭が時報の正時音、「ポーン」から録音されていないと嫌な私が神経質すぎるのか。乗り鉄だった影響か、時計の時刻は一秒でも狂っていると気に入らない。自宅で自分が見る範囲の時計は全て電波時計である。正時がずれるデジタル放送は気持ちが悪い。だから、音質が良いと言われても、ラジコから録音する気にはならないのだ。もっとも、ラジコは頻繁に落ちるわ、しょっちゅう音声はとぎれるわで、到底本放送と比べられる代物ではなく、難聴対策用の域を出ていないと感じる。

 パソコンと接続して使うとまた印象が変わるかも知れないが、常置場所をパソコンから離れた枕元にしてしまったので、当分は単体での使用が続きそうだ。そもそも、パソコンに近づけるとノイズを拾うので、この辺の兼ね合いをメーカーとしてはどう考えているのだろうか。
 すぐにバージョンアップしたりはしないだろうが、数年後に後継機(?)が出るまでは付き合うことになりそうだ。他社からも類似製品が出ることで、このジャンルの製品が洗練されていくことを願っている。

【半年使用レビュー】(二〇一一年九月七日)

 半年間毎日使ってみて、若干補足する。
 まず記録メディアのSDカードだが、対応している三十二ギガバイトの物を挿すと、起動にものすごく時間が掛かるようになる。起動時にカードの内容を読みに行くらしく、数十秒も経ってから音が出る。録り貯めが出来るように三十二ギガを買ったのだが、お話にならないので二ギガに戻したので、録り貯めは三週間ぐらいしか出来ない。
 そして、何ともダメダメなのが最初にも書いた時刻修正機能の件。何がダメかというと内蔵時計の精度が著しく低いのだ。恐らくゼンマイ仕掛けの時計でも入っているのだろう。一日一秒以上コンスタントに遅れていく。なので一週間も時刻修正しないと、番組の第一声が切れてしまうのだ。せめて進んでくれればまだ救われるのだが、遅れるのは致命的。このおかげで肝心な部分を録り逃がすケースが何度もあったので怒り心頭だ。
 そして、パソコンに接続しないと時刻修正が出来ないのに、接続したままだとタイマー録音が作動しないという仕様になっている。こんな馬鹿な話はない。
 私の使い方では、SDカード内のMP3ファイルをそのままパソコンに取り込んで使っているので、何とか言う付属のソフトを使う必要はない。しかし、このソフトを立ち上げないと時刻修正が出来ないので、二三日に一度パソコンに繋いで、使いもしないソフトを立ち上げ、終了し、パソコンから外し、外すと勝手に電源が入るので手動で電源を切るという、非常に煩わしい作業を行わなければならない。ほったらかしておけば勝手に録音しておいてくれるという、一番期待した部分が、一番嫌な状態で中途半端である。
 音質の悪さ(強音部の音割れ)や録音レヴェルの低さは我慢できる範囲だが、この時刻修正の問題は致命的だ。大いに期待して使い始めたが、この部分が改善された同様機種が発売されたら、迷わず買い換えると思う。期待が大きかった分、本当にガッカリというのが使用半年の感想である。現在は苦肉の策で、予約録音の時刻を全て番組開始一分前に設定している。今時こんなアナログな対応をユーザーに強いている事を、メーカの担当者は恥じるべきだし、もしファームウェアで対応出来る(ゼンマイ式だとしたら無理かも)としたら、即刻対応すべきだと思う。

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2011年1月24日 (月)

AMステレオ終了

 TBSラジオのAMステレオ放送が一月三〇日限りで終了する。最近立て続けに地方局ではAMステレオを終了する動きが続いたのだが、まさかTBSも終了するとは思っていなかった。FMラジオ並みの高音質で聞ける、AMラジオのIPサイマル放送(通称ラジコ)が始まったことが、結果的にはAMステレオ放送に引導を渡したということになるだろう。
 私は子供の頃からラジオ好きだったのだが、高校生の頃はカッコつけてFM横浜やFENを聞くことが多かった。今思えば噴飯もののカッコ悪さである。そして、大学生くらいになると再びAMラジオに戻って、通学の友はカードラジオ。TBSの森本毅郎、大沢悠里、こども電話、若山弦蔵あたりを電車の中で聞く毎日だった。AMステレオ放送が始まった一九九二年三月十五日は丁度そのAM回帰期であり、早速ソニーのSRFーM一〇〇という小型ラジオ(当時はまだカードラジオでAMステレオ対応機は無かったと思う)を購入して、面白がって聞いていた。しかし、確かに野球中継は臨場感があるし、音楽はちゃんとステレオで聞こえるが、私がAMラジオに求めるのは喋りが中心なので、ステレオでないとしても何ら不便は感じないというのが実感だった。
 その後自室の据え置き型チューナーもAMステレオ対応機(ケンウッド/KTー三〇八〇)に替え、大型ループアンテナ(ミズホ通信/UZー八DX)を繋いだが、AMステレオ受信はモノラル受信より雑音が入るので、ずっとモノラル受信のままになっていた。
 ラジオ番組を録音するという作業も、それこそ小学校の時代から続けている。子供の頃は音楽や落語をカセットテープに録り貯めていたが、現在はラジオ番組を丸々録音してMP3形式で保存している。ずっとAMラジオはモノラルで録音していたが、二三年前からはせっかくステレオで放送しているのだからと、AMステレオで録音しておくという方針に切り替えた。昨年暮れにアンプを買い換えた時、カタログからAMステレオ対応機種が殆ど無くなっていることに気付き、既存のチューナーは元気だが、もう一台のAMステレオ対応チューナー(パイオニア/FーD3)を購入した。新しいチューナーはアンプへ、古いチューナーはパソコンに直結し、AMエアチェック態勢の強化を図ったばかりだった。その矢先にAMステレオ終了というのは少しがっかりな気がする。
 しかしながら、よく考えるとこのAMステレオという技術は、全く需要がない技術だったと思う。かつて見えるラジオというものがほんの少し出回り、あっという間に消えたことがあった。文字情報や画像を見たければテレビを見ればいいからである。AMステレオも同じ事、音楽を高音質で聴きたければFMを聞けばいいだけの話だ。大沢悠里や毒蝮三太夫の声をステレオじゃないと聞きたくない人など居ないだろう。宇宙開発みたいなもので、国民の需要からではなく、技術的な興味から生まれた規格なので、二十年近く続いたという事が驚くべき事なのかもしれない。
 ついでに予想すると、現在市場を席巻している3Dテレビ。家庭で立体映像を見られるアレも、すぐにブームは去るだろう。立体映像の技術自体は何十年も前からあって、別に目新しいものではない。普及しなかったのは需要がないからで、今のブームも一過性のものだ。人間の脳は二次元の映像を三次元に補正出来る能力を持っている。映像は二次元で完結、音楽はステレオで完結、会話はモノラルで完結しているから、それ以上の情報はあってもなくても支障ないのだ。
 それにしても、初めてAMステレオで野球中継を聞いた時や、初めて3D映像のアダルトビデオを赤青メガネを掛けて見た時の、期待と拍子抜けの感じ。我ながらマニアックな人間というものは、新技術とか新規格という言葉につくづく弱いものだと実感する。

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2010年8月23日 (月)

NHK甲府のバカ

 子供の頃からラジオが好きで、家にいる間やクルマで移動中は常時ラジオをつけている。長野県の山間部に活動拠点があるため、年に何度も中央道又は甲州街道を往復するが、愛して止まないTBSラジオの電波はほぼ全区間で受信可能だ。山間部の活動拠点にも屋外にロングワイヤーアンテナを設置しているので、夜間はフェージングに悩まされるものの、比較的良好に受信できるのだ。
 ところが、一箇所だけ全くお話にならない地区がある。それは甲府盆地の西側一帯。詳しく言えば中央道の甲府昭和インター付近の一帯である。このあたりではどうしてもNHKの電波が混信して、TBSがかき消されてしまうのである。四年前にクルマを買い換えて以来、カーラジオの性能が上がったせいか、混信する範囲は狭くなったような気がするが、前のクルマの時は甲府盆地全体が混信地域だった。
 混信の犯人はNHK甲府放送局のラジオ第一放送。927キロヘルツ、五キロワット。TBSとは二十七キロヘルツ(3チャンネル分)も離れているのに強烈に混信してくる。最初私は中央道の双葉サービスエリアから見える電波塔が送信所かと思っていたが、あちらはYBS山梨放送のアンテナらしい。NHK甲府は甲府昭和インターを過ぎると右側の道路脇に立っている鉄塔のようだ。
 中央道を走りながらTBSを走っている人は多いと思うが、笹子トンネルを越え甲府盆地にはいると受信状態が悪くなる。そして甲府昭和付近でどうにもならなくなるのでチャンネルを変えるかラジオを切るかを迫られる。しかし、ここで音量を絞って暫く我慢していれば、須玉の先辺りで再びTBSが聞こえるようになるのである。

 ところで、こんなにTBSラジオが好きな私だが、近年聴いていられない時間帯があることが残念だ。車で移動していることが多い日曜の九時台。日曜の朝から「リスカ(ってなんだよ!)だの、暴力だのと、本当なら深刻すぎるし、やらせなら全く面白くないテーマに、無駄にテンションの高い関西弁が、バカの一つ覚えみたいに「ウイアー親戚」「電話で繋がっている」を連呼する番組は、痛すぎて聴くに堪えない。一日中TBSラジオをつけっぱなしにしておきたいのに、わざわざ消さざるを得ないのは、ファンとして悲しすぎる。早くあの不愉快番組が終わらないかなあ。

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2010年2月26日 (金)

「ウンタマギルー」(パルコ一九八九年)

二〇一〇年二月二十六日東京都写真美術館
「第2回恵比寿映像祭 歌をさがして」

 以前この映画をヴィデオで見直したとき、このブログに「スクリーンで観ることが叶わなかったので、せめてDVD化してもらえないものだろうか」と書いた。その作品をスクリーンで観るチャンスが来たのだ。
 興味なくチラッと見た「恵比寿映像祭」のチラシに「ウンタマギルー」というカタカナの並びを発見し、思わず見直した。そして、仕事中だったにもかかわらず「うわっ!」と声を上げてしまった。正に望外の喜びだ。しかも一般の映画館ではないので、前売り九百円という入場料だ。ありがとう写真美術館!。

 会場の写真美術館のホールは一九〇席ほどで、スクリーンや音響設備も決して立派とは言えない。しかし、興行として成り立たないような地味な作品を定期的に上演しているようだ。入りは寂しく四〇名ほど。
 上映に先立ち美術館職員の説明がある。曰く、今回は私も行ったことのある沖縄県立博物館・美術館のアーカイヴにあるニュープリントでの初上映(厳密には当映画祭での第一回上映の二十一日に続き二回目)とのことで、遙々沖縄から駆けつけた沖縄県立博物館・美術館館長から一言挨拶がある。
 続いて上映が始まるが、最初の床屋のシーンがスクリーンに映されたとき、何とも言えない気持ちになった。封切り時に知らなかった映画を後で知ると、テレビ画面でしか観られないことが殆どだ。しかし、諦めていたウンタマギルーを今スクリーンで観ている。この世に思い残すことが確実に一つ減ったと感じる。
 ニュープリントの画質は良好とは言えないように感じた。二十年という歳月の間に、確実に原盤の劣化、退色は進んでいる。今ぐらいの内に早くDVD、出来ればBD(再生機材を保っていないが)化してくれないだろうか。

 エンドロールまできっちり観て、駅の反対側の「縄のれん」で久し振りに立ち飲み。ハイボール三八〇円、ビール大瓶七八〇円、やきとり一本一六〇円と、およそ立ち飲み屋の値段ではないが、ここの牛はらみ串と、油ギトギトで食べると体調を崩す煮込みが、時々無性に食べたくなるのだ。

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2009年9月 2日 (水)

あんにょん由美香(二〇〇九「あんにょん由美香」フィルムパートナーズ)

二〇〇九年九月二日 ポレポレ東中野

 二〇〇五年に急逝したAV女優、林由美香を巡るドキュメンタリー。韓国製のエロビデオ「東京の人妻純子」という珍品に出会った監督が、その関係者を訪ね、この日韓合作のエロビデオが生まれた背景に迫る。

 林由美香も私も一九七〇年六月東京都立川市生まれという共通点を知ったのは、彼女が死んだ後だった。そんなことを知らなくとも、同じ世代を生きてきたから、林由美香が「プロのエロ女優」だという認識はあった。生半可なAV女優と違い、十八才から亡くなる三十四才まで、エロの第一線で稼ぎ続けた姿勢には感動すら覚える。顔立ちはコケティッシュだが、小柄で貧乳ずん胴という決して恵まれないプロポーションなのに、表裏AVやポルノ映画で膨大な作品を残したのは、あくまで想像だが「プロの仕事としてのハダカ」が出来る女優だったからだろう。
 突然の死から四年を経て制作された本作は、関係者の証言を中心に展開される。各方面での評価が高いので期待して観たのだが、丸々二時間かけたわりには内容が薄いような気がする。色々な証言者の録音状態の悪いインタビューをだらだら流している感が強く(適度に要約して字幕にしたりはしているのだが)、三回忌の法事の後で、酒飲みながら故人の思い出をとりとめもなく話し合っているような印象だ。
 日本側関係者のインタビューを経て、韓国側関係者の取材を試みるのだが、これは画面を見ても露骨に感じるとおり、先方にとっては迷惑な取材だったのであろう。恐らく韓国側の感覚としては、我々が金髪女&日本人男モノを観るような感覚で、エロよりもはっきり言いにくい要素が含まれているはずだ。韓国人通訳が困惑していたように、エロに関わったことは国内的に言いにくく、もう一点では日本人取材者に言いにくいという苦しい立場だったと思う。
 雲行きが怪しくなり、どうまとめるのか心配になった頃に、「カットされた最終場面の再現」という思わぬ方向に話は進む。実際あってもなくてもいいような台本の、監督がカットしたシーンに、たまたま「純子は誰にも所有できない」という台詞があったのを、実際の林由美香に重ねて、上手い結末を考えたとは思うが、作り手の自己満足のような気がする。

 林由美香という女優を知らなければ、全く何の興味も湧かない作品だとは思う。しかし、林由美香と同世代で、一方的に彼女に思い入れのあった私と同類の人たちにとっては、最後の再現は蛇足としても、興味を持って観ることの出来る作品なのではないだろうか。

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2009年7月 9日 (木)

「非女子図鑑」(二〇〇八「非女子図鑑」制作委員会)

二千九年七月九日 新宿 K’s cinema

 占い依存の女「占いタマエ!」、ただ闘う女「魁!!みっちゃん」、ノーブラの女「B[ビー]」(*)、男を演りたい女「男の証明(あかし)」、混浴好きの女「混浴 heaven」、自殺にはしる女「死ねない女」、以上六本のオムニバス映画。平日のイヴニングショーで、観客は「つ離れ」未満。

 バカバカしくて面白そうで、仕事帰りに寄れる場所&時間だったので足を運んだ。私はハリウッドの制作費何億円をかけた一大スペクタクル映画より、この手の低予算で知恵を絞った映画が好きだ。出来不出来の差は若干あるが、「B[ビー]」、「混浴 heaven」、「死ねない女」が面白かった。特に「混浴 heaven」の江口のりこと綾田俊樹の役者の鑑のような演技が気に入ったが、何故かこの作品だけ画像が荒かった(デジタルなので細かなモザイク状に見える)のが残念。魚焼くのに七輪は判るけど、練炭は違うんじゃない?、という点は気にしなくていいだろう。(**)
 オープニングの鳥居みゆきと、外人親子のシーンは必要ないと思うが、話題作りのためと思えば営業戦略上仕方あるまい。新宿 K’s cinemaは初めて行ったが、こぢんまりしていい映画館だ。こういうところでマニアックな映画をどんどん上映してもらいたい。

(*)実際の表記は「B」を反時計回りに九十度回転させて「小さな山と大きな山」状の記号の後ろに読み方の[ビー]。
(**)魚や肉を焼くには「七輪+木炭」、煮炊きには「練炭コンロ+練炭」。混浴で酒肴の手練れだったら、「珪藻土切り出し七輪+備長炭」でアジの開きを焼いたらカッコイイ。

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2009年3月22日 (日)

「釣りキチ三平」(二〇〇九「釣りキチ三平」制作委員会)

講談社「週刊少年マガジン」創刊50周年記念作品

二〇〇九年三月二十二日 立川シネマシティ

 一九八〇年代に釣り少年だった世代には、釣りの教科書だった漫画の実写化。「釣りバカ日誌」シリーズで散見される、釣り上げたばかりの魚がグッタリ衰弱している不自然さを解消すべく、CGを駆使した釣りシーンが売りだという前評判。実は十一日によみうりホールで行われた試写会の招待状を手に入れていたのだが、会社の送別会のため断念。封切り三日目に観に行く。

 前半は原作の「水のプリンセスの巻」、後半は「夜泣谷の怪物の巻」。前半はほぼ原作通りの筋だ。後半では原作では赤の他人である愛子が、東京に住んでいる三平の姉という設定で現れる。この愛子が田舎暮らしの三平&一平のアンチテーゼとして物語は進む。間に挟まる事になる魚伸が、設定上原作とは違う三枚目キャラになるのは仕方がないのだろう。
 心配だった釣りシーンのCGは、お茶の間映画としては十分に楽しめる出来である。釣りのシーン以外でもCGが効果的に使われており、夜泣谷の怪物の姿もギリギリお笑いにならない範囲に収まっていると思う。主役の須賀健太は好演だと思う。表情が豊かなところは素晴らしいが、もう少し三平のお調子者な要素が表現できれば良かった。一平爺さんと魚伸も好演。重要な脇役であるユリッペが、ちょっとお淑やかすぎるのが難点か。原作通りお転婆で手が付けられない雰囲気が欲しかった。愛子はこの脚本では大変重要な役だが、頑なに田舎暮らしを否定しているうちはいいのだが、後半の展開に演技が追いつかない。役者として技量不足である。
 役者の技量よりも気になったのは、やはり釣りのシーン。夜泣谷の怪物が針に掛かって以降のやりとりの場面で、リールからギリギリ糸が出るほど引き合っているのに、竿を支えている腕に全く力が入っていないのが見え見えで白けてしまった。撮影時には空竿を持たせて撮影したのが見え見え。せめてスタッフが見えないところで糸を引っ張ってやれば、幾らかリアリティのある映像が撮れたのではないだろうか。

 原作を全巻所有している(文庫版だが)くらい好きな作品だ。そして、三平を師として釣りをしてきた。だから、実写版映画の評価はかなり厳しくなる。原作を知らず、釣り師でもない人が観るなら、かなり楽しめる映画だと思う。この映画を観た子供たちが、原作を読み、釣りに興味を持ってくれたらいいと思う。原作者・矢口高雄の釣り論は、時に気恥ずかしいほど青臭いが、子供が最初に目覚めるには丁度いい。それから段々現実を知っていけばいいと思う。
 この映画が、釣りの入り口になってくれればいいと思う。

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